別子銅山【東平街道登山と東平社宅跡】

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「東洋のマチュピチュ」として、最近、脚光を浴びる別子銅山。別子銅山は江戸時代から昭和48年まで、300年近く営まれた銅山。一時は世界一の銅の産出量を誇り、「住友」が300年経営を続け、その発展の礎となった。一企業がこれだけ長い間、鉱山を経営した例は世界にもなく、評価される点も多い。
閉山後わずか50年ほどではあるが、すでにかつて何千人以上が住んでいた銅山は、美しい森へと姿を変えている。その高い山の上の深い森の中、静かに眠る産業遺跡が、今になってマチュピチュのような風景だと脚光を浴びているのだ。当時は山の上の鉱山街と平地にある街には街道が続いており、多くの人が行き交っていた。その街道は今は登山道としてひっそりとしている。東洋のマチュピチュへ続く道を今回歩いてみる。

マイントピア別子から東平街道登山口へ

紅葉のマイントピア別子

今回はかつての街道を歩き、東平(東洋のマチュピチュ)へ向かう。出発は道の駅「マイントピア別子」だ。
別子銅山の最後の採鉱本部があった場所で、今も第四通洞や発電所跡などの産業遺産が多く残る。現在では温泉や観光坑道、広場などが整備され、多くの人が訪れる施設となっている。
この駐車場に車を置き、別子銅山の遠登志登山口まで県道47号線を歩いていく。マイントピア別子から「清滝」までの渓谷は、別子ラインと呼ばれる紅葉の名所。ちょうど見頃を迎えた紅葉もとても美しい。
なお、目指す東平ほマイントピア別子の東平ゾーンとして整備されており、車道も通っており、この道の駅からもツアーバスが出ている。

旧端出場水力発電所

出発してすぐ目の前に現れるのが「旧端出場水力発電所」
明治45年に建築された施設で、当時の日本最大級の発電所。水力発電は高い所から水を落として、その勢いでタービンを回して発電する。旧端出場水力発電所は当時、596mという東洋一の落差を誇っていた。

旧端出場水力発電所

100年も経つのに崩壊の様子すら見せない強固な建物。一部ガラスが割れたりしているが、今でも現役で使えそうな建物だ。「旧端出場水力発電所」は別子銅山の現存する産業遺産の中でも最大のもので、最も保存状態が良い。
この水力発電所の中には当時の発電機が残っている。一度はこの中を見てみたいが、一部の変電施設が現在も稼働中のため、残念ながら非公開となっている。

鹿森ループ橋

渓谷沿いの県道を進むと、「鹿森ダム」が姿を現す。最近工事が完成したループ橋。ダムの目の前をぐるりと一周している姿は圧巻。ここを車を走らせるのはなかなか気持ちが良い。
ただし、歩きでループ橋を通過するのは時間がかかる。ループ橋手前の左側へ進む旧道を行く。険しい岩壁にくり抜かれた細いトンネル。車で通過するよりも、歩いてこの旧道を行くと、なかなか味があり面白い。

鹿森ダム

旧道を抜けるとダムの上に出る。県道と合流し、少し進むと、今回の登山口である「遠登志」(おとし)に到着する。時間にして、マイントピア別子から約30分かかっている。
コースはまず、この遠登志渓谷を登り、東洋のマチュピチュとして有名な「東平」(とうなる)を目指す。紅葉が美しく、澄んだ水が小さな滝を幾つも作り流れ落ちる見事な渓谷。しかし、この渓谷沿いには過去、東平で掘り出された鉱石を下界に下ろす索道(ロープウェイ)が設けられていた。そして、銅山に住む人々が行き交う、「東平街道」と呼ばれる生活道でもあった。
自然に包まれた渓谷は、たった40年ほど前の昔の様子すら垣間見せない。そして、この渓谷の上流、3000人を越える人が住み、学校や病院などのインフラがしっかり整った町があったとはにわかに信じられない。 まさに山の上の空中都市遺跡。東洋のマチュピチュの名前の由来である。
登山口の入口は付近に3つある。1つ目はこの橋の北側。遠登志橋入口から「遠登志橋」を渡って入山するルート。(写真左側の谷に入っていく細い道)
「遠登志橋」は明治38年に造られた橋で、登録有形文化財、近代文化産業遺産に登録されている。

遠登志売店

橋の南側には「遠登志売店」がある。別子銅山がまだ開山していた半世紀以上前から営業するお店。おそらく、東平へ往来する当時の人が、この店で休んでいった事だろう。
このお店の名物は、創業時からのダシをつぎ足しながら作るおでん。登山道を降りてきた瞬間、この誘惑に勝てるのだろうか・・・
当時の人も、誘惑に勝てずに、このお店に吸い込まれていったのだろう。
さて、「遠登志」と書いて「おとし」と呼ぶこの地名。昔はこの渓谷が落ちていく様を「落シ」として地名にしていたのだが、この字があてられた。ここから東平までは急な山道を行く。「まだ遠く、登らないといけない」というような意味を込めてこの字があてられたのだろうか。
遠登志売店の後ろ、白い柵が付けられたコンクリートの急な階段が2つ目の登山口の。登り切ると展望台になっていて、遠登志橋の全貌が眺める事が出来る。ただし、急こう配の上、階段の幅が狭いので、通行には要注意。

遠登志公衆トイレ

遠登志橋の近くには公衆トイレがある。駐車場2台を完備しているが、「使用者専用で登山には使わないでください」とある。そう、道の駅からわざわざ30分も歩いたのには、この遠登志登山口には駐車場がないのだ。車が停められそうな路肩も付近には何箇所かあるが、かなり小さなもの。遠登志橋の入口には2台ほど車は停められそうだが、遠登志橋の観光や遠登志売店の客が使うので、長時間の駐車はあまりよろしくない。登山をする場合は、やはりマイントピア別子に車を置きたい。

遠登志登山口

公衆トイレから南にやや進むと、左側に登山道入口がある。3つ目の登山口で、今回はここから登り始める。とはいえ、他の2つの登山道とはすぐに合流する。合流地点には、きちんと道標があるので、下山時にも目印になる。

東平街道

山道を登るが、とても立派な石垣が方々に組まれている。山の中ではあるが、おそらくこの付近にも集落があったのだろう。レンガ組みの遺構も所々みられる。
以前の生活道路だけあって、道はとても歩きやすい。ぐんぐん高度を上げていくが、階段は人間がとても歩きやすい歩幅と高さに設定されていて、さほどの苦痛を感じさせない。ハイスピードで高度を上げていける。
途中、何箇所も道標の無い分岐点に出る。どちらの道に進んでも、東平に続いている。分岐する道は、決まって写真のような石の階段が続く道と、なだらかな山道である。山道はゆるやかな傾斜の迂回路になっている。しかし、迂回する距離は半端ではなく、無駄にとても長い。前述したように、階段は歩きやすいので、分岐点が現れた時は、必ず石の階段の道を登る事をおすすめする。

東平街道に眠る鉱山街の遺構の数々

坑水路会所

登山口からおおよそ25分。急な登りの石階段は途切れ、広い道幅の緩やかな道へと姿を変える。急な登りは終了だ。
ここからは等高線とほぼ水平に東平直下まで進む、快適な緩やかな登り道となる。はるか足元、渓谷の水の流れを聞きながら落ち葉の敷き詰められた道を進む。すると早速、レンガ造りの遺構が姿を現した。

坑水路会所

現れたのは「坑水路会所」という産業遺産。今歩いている登山道は、40年前は東洋のマチュピチュの「東平」から新居浜市内へと向かう生活道路。索道や鉱山廃水路もこの道沿いに設けられていた。
この「坑水路会所」は「東平」にある「第三通洞」からの排水を海に流すために作られた水路の一部。銅山から湧きだした水は非常に強い酸性を帯びており、そのまま川に流せば環境汚染を引き起こしてしまう。そのため、明治38年にこのこの坑水路が標高750mの東平から瀬戸内海まで、約16kmもの距離を鉱山廃水を流すための水路が造られた。途中、山根収銅所にて鉱毒を沈殿させ、澄んだ水にして海に流していた。

坑水路会所

重厚なレンガ造りの水路。急斜面を流れ落ちる水をしっかり受け止めただけあってとても堅牢なつくり。100年以上経った今でも、損傷はほとんとなく、現役で使えそうなくらい。よくこんな施設を100年も前に造ったものだと感心する。
別子銅山に来ると特に明治時代の産業遺産には驚きを感じる。現在でも相当な期間と労力がかかる建造物を短期間で造り上げたものがとても多い。明治の日本人のパワーをひしひしと感じる。

別子銅山坑水路会所

坑水路会所は勢いよく落ちてきた水をいったん受け止め、その内部に水を貯め込む。そして、違う方向へと再び水を吐き出す仕組みになっている。基本的に坑水路のほとんどは木製の樋を使っていたそうだ。しかし、水の向きを変える場所や、急斜面では水の勢いに耐えるため、水路は堅牢なレンガで建造されている。

坑水路会所

いったんこの坑水路会所で蓄えられた水は、再び深い谷へと向きを変えて流れていく。この水路は住友家2代目総理事の伊庭貞剛が造らせたものだが、この水路のおかけで別子銅山付近の川への汚染された水の流入は防げたそうだ。
遺跡付近の緑も、住友家が閉鎖した銅山の部分に植林をしてよみがえられたもの。当時はもっと緑が少なかったこの山が、あふれるくらいの緑に再び包まれたのは、別子銅山の環境への取り組みがあったからこそ。300年近く鉱山を営んだ住友は、この山の下に重工業の会社を幾つも造り上げ、そしてこの山を造り、今も治山する住友林業を発展させた。まさに、今日本の産業を支える大グループの礎が、この山の中に眠っているのだ。

別子銅山坑水路

急斜面を流れ落ちる坑水路。寸分の狂いなく急斜面に組まれたレンガ造りの水路は見事で、木々に埋もれていく今でもその存在感は際立っている。
付近には電線が張られている。電線は目指す東平まで、今もこの山道沿いに伸びている。東平には、観光施設があるため電気が引かれていてもおかしくないが、どうやってこんな所に電柱を立てたのか、どうやってメンテナンスするのかとても不思議に思った。東平へは車道も通じているが、そういえばこの車道沿いには電柱や電線は無かった気がする。やはり昔に電気を通していた過去の施設跡を使った方が維持をしやすいのだろうか。
坑水路会所はここが最大級だが、実は他にも何箇所もある。歩きやすい道なので、道端の遺跡を昔に思いを馳せながら探し歩くのも面白い。

紅葉の遠登志渓谷

登山道は一気に標高をあげたのち、水平に近い、とても歩きやすい道になる。その道に追いつくように、足元から遠登志渓谷が少しずつその谷底を押し上げていく。
「遠登志」渓谷は、愛媛の紅葉の名所の「別子ライン」を構成する、紅葉が美しい谷のひとつ。歩いていると、色づき始めた紅葉が朝日に照らされて、とても美しく山合いの中に輝いていた。

遠登志渓谷の紅葉

先ほど見た「坑水路会所」はこの先にも何箇所かある。規模はそれほど大きくないも、100年以上前のレンガ造りの水路の遺産が、登山道の方々に残っている。この時期、紅葉を背にして、その姿はとても趣きがある。

紅葉の東平街道

遠登志から東平に向かう道。道幅は広く、とても比較的傾斜は緩やかで歩きやすい。所々、電信柱が立っていて、今もこの先にある東平跡にある資料館や青少年宿泊施設に電力を送り続けている。
誰も歩かない山道だが、かつてはここを多くの人が歩いた。そして、現在もこの道を電力が電線をつたって山の上に駆け上がっている。

別子銅山の紅葉

訪れたのは11月20日。ちょうど別子ラインの紅葉の見ごろで、この遠登志渓谷の紅葉もとても美しく色づいていた。

別子ライン紅葉

木々は枝をいっぱいに伸ばし、青空に深紅のヴェールをたなびかせる。朝の元気な光が木々をまるで燃やすかのように、美しい赤をまぶしく染め上げる。

別子ライン紅葉

渓谷、そして朝の光。斜めから降る光と、それを遮る渓谷の斜面は、見事な陰と陽のコントラストをつくりあげる。光を受けない木々光を食らうかのようには暗く。そして光を受けた紅葉は、まるでそれ自体が発光しているかのように。登山道という、人間がいる事が許されるごくわずかな山の中の場所にすら、光は美しい演出空間をつくり上げた。

東平街道

東平へ向かう「東平街道」の今は登山道ではあるが、かつては人々が鉱山町から海に面する市街地や採鉱本部へ向かうための道だった。使われなくなり半世紀経過し、深い緑に覆われているが、当時の面影は色濃く残っている。固い岩壁を削り取り、谷には石垣を組んでその下に水を流す穴を設けた暗渠を築いて、歩きやすくしている。登りも下りも、誰一人逢わなかったこの道だが、当時は多くの人が利用していたのだろう。
さて、抗水路会所を過ぎた次の産業遺産は「東端索道中継所」だ。「東洋のマチュピチュ」東平から採鉱本部のあった端出場までは索道(リフト)が結ばれていた。東平で採掘された鉱石を下ろし、帰りのゴンドラには生活物資が乗せられていた。まさに今、車を停めた道の駅「マイントピア別子」から目指す東平まで歩く山道のこの頭上に40年前にリフトが行き交っていたのだ。そのリフトの向きを変えたのが中継所で、今もレンガ造りの建物の遺構が残っている。しかし残念ながら、この産業遺産の発見には至らなかった。大人2人で、行きも帰りも注意して探したのに見つからなかった。それだけ深い森の中に埋もれているのだ。
昔の写真を見ると、今歩いている「東平街道」よりも谷の下にあるようだ。そういえば谷の下に降りていく道があった。おそらくそこが「中継所」の入口だろう。ただ、そこに入らなかったのは、完全に廃道状態になっていて、道の先に何も見えなかったからだ。長い歳月は、巨大な人間の遺構すら、完全にその体内に飲み込んでしまっている。そう思うと、この森の中にはまだまだ知らない遺跡がいっぱい残っているのだろう。

東平街道のお地蔵さま

道をさらに進む。道端にはお地蔵さま。この道にかつて往来があった事が偲ばれる。

東平街道レンガ橋

よくみると、登山道にはレンガ造りの橋もかかっている。登山道の一部として違和感なく溶け込んでいる。橋の下は断崖絶壁の渓谷。少し渡るのが怖いとも思ったが、とても強固で今でもまだびくともしない。

東平街道レンガ橋

レンガ造りの橋の下には、ずっと下にあった遠登志渓谷を流れる小女郎川がすぐ足もとに近づいてきていた。川は小さな滝が幾つも連なる見事な渓谷を造り上げている。見事な渓谷美にしばし目を奪われる。
この上流に、30数年前まで3000人以上の人が住み、鉱山開発をしていたなんて、にわかに信じられない。当時はいくらかは汚れた川だったのだろうが、今ではそんな事も思わせないくらい、透き通った美しい色の流れだ。しかし、透き通った美しい流れだが、どこか冷たく無機質を思わせる水の流れ。旧別子銅山の中を流れる川の多くには、川魚などを見ない。おそらく鉱山独特の含有物などで、酸性濃度が高く、魚などが住めないのだろう。魔性という言葉がぴったりな、青みの強い澄んだ水だ。

東平街道の紅葉

眼下に迫った清流の流れに目を奪われがちだが、頭上の紅葉も見事。しかし頭上の紅葉の中には必ず、電線が走っている。今もこの登山道に通されている電線が、東平の観光施設の電力を支えている。

東平街道

川の向こう側に産業遺産を発見。どうやらここに水車が造られていたようだ。石垣を組んで造られた平坦地に沢の水を落として作業をしていたのだろう。

東洋のマチュピチュの森に佇む人々の生活跡

東平街道分岐

やがて道は分岐点になる。ここが東平、東洋のマチュピチュの真下になる。左に橋を渡って進むと、ゆっくりと登り、第三変電所の脇に出る。右に進むと、石垣がいくつも重なる社宅跡を抜け、東洋のマチュピチュと称される「貯鉱庫」の真下に出る。
産業遺産を多くみたいのならば右へ、銅山峰などの登山に向かうのならば左へ進むのが良い。ただしどちらに進んでも、「東平」の観光ゾーンの中に出るので、登りと下りで違う道を行くのがおすすめだ。
今回は右、銅山の里・自然の家方面へ登る。そして帰りは第三通洞からの下りを選択した。右に進むと社宅跡のほか、病院・娯楽場跡なども見ることができる。当時は3000人以上もの人が住む町。別子銅山閉山時まで人が住み続けていたが、今はその町の跡は自然の中でひっそりと眠っている。

辷坂社宅

第三通洞へ向かう道と別れ、しばらく行くと、突然付近の風景ががらりと変わる。杉林の中、まるで墓標のように、レンガ造り、コンクリート造りの遺跡群が姿を現す。東平の社宅のひとつ「辷坂(すべりざか)社宅」である。
その名前は、谷間にあるため、冬は根雪が残り、よく人が滑っていたからだとか。このレンガ造の遺構はは炊事場の跡だろうか。

東平社宅跡

かまどが残っている。草木に絡まれたその姿は、ほんの40年ほど前まで現役で使われていたとはにわかに信じられない。旧世界の忘れ物にも見える。

東平社宅跡

まるで城壁のような石垣が組まれた階段を登る。かつては多くの人が往来し、この石垣の上には家があり、人の生活が営まれていた。ここを行き交う人は、着物と草履ではなく、洋服・スーツに靴を身に纏っていたのだ。そんなちょっと前の人の暮らしが、遺跡となっている。

東平紅葉

見上げると真っ赤な紅葉が青空を焦がしている。やがて「東洋のマチュピチュ」のシンボルともいえる貯鉱庫跡の真下に出る。ここから「病院跡・娯楽場跡」の案内看板に沿って分岐路を進む。

東平娯楽場跡

「娯楽場跡」には今は橋が残るだけだが、ここには収容人数2000人を誇る、3階建ての巨大な建物があった。敷地跡を歩くと、石垣や鉄筋コンクリートのあとなど、巨大な建造物があったであろう事は感じられる。今は、深い山の中に、2000人もの人が集まって、観劇を楽しんでいたなんて、今となっては信じられない。

東平保育園跡

「保育園跡」
昭和25年から昭和43年に保育園が開園されており、広場にはすべり台やジャングルジム、ブランコもあった。今は静かな森の中だが、当時はにぎやかな子供の歌声が響いていたのだろう。コンクリート造りの遺構はプールの跡だろうか。

東平社宅水路跡

付近には水路が造られ、その上をまたぐよう暗渠や橋が造られている。深い山の中、深い森の中に突如として現れる町の、文明の跡。神秘的な遺跡との遭遇。在りし日のこの町を知らない僕にとっては未知の古代文明を発見したような気になる。
が、ここでかつて、うぶ湯を授かり、育った人々は、今も現役世代として、日本を支えているのだ。

住友別子病院東平分院跡

生協跡を通り抜けると、「住友別子病院東平分院跡」がある。今はそのコンクリートの門を残すだけだが、ここに明治38年から昭和43年まで、立派な病院があった。内科・外科はもちろん、隔離病棟などもあった。

紅葉と東洋のマチュピチュの美しいコラボ

東平道路

病院跡から少し登ると、アスファルトの道に出る。ここは現在の道。「東平」に車で向かう道だ。
かつては山道を徒歩で人々は下山をしていたが、今は車で気軽に東平に向かうことが出来る。ただし、最近のブームで細い道に入る車が増え、大変な渋滞が発生する事もあるのだとか。

東平駐車場

東平の駐車場にはすぐに着く。かつてプラットホームが、今は駐車場と広場になっている。正面の山は「西赤石山」で、登山者に人気のある山。以前はここは登山者と物好きくらいしか来なかったのに、今は多くの観光客で賑わっている。
そして、さらに驚く事に、向こうに見える山の中腹に、明治時代に機関車が走っていたのだ。まだ県都である松山にも蒸気機関車が走りだした頃、こんな1000mを越える山の上に、山岳鉄道が敷かれていた。

東洋のマチュピチュ

駐車場にある広場から下を覗くと、そこに「東洋のマチュピチュ」を代表する、有名な風景が待っている。別子銅山の最大級の産業遺跡、貯鉱庫、索道場跡である。

紅葉の東洋のマチュピチュ

まるで古代の神殿跡のように見える。見た目は産業遺産ではなく、古代文明遺跡そのものである。この駐車場から階段で下に降りていく事が出来る。

秋の東洋のマチュピチュ

「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる所以がこの風景だと思う。はるか山の上に、謎の巨大遺跡が残っている。まるで時代から取り残され、忘れられた古代文明。確かに本家本元のマチュピチュと、どこか雰囲気がよく似ている。
しかし、本物のマチュピチュと違い、ここで暮らしていた人々は謎のヴェールになど包まれていない。この遺跡で生まれた人が、今も下の町で生活の場を変えて過ごしているのだ。その気になれば、当時の様子を生の声で聞く事ができるのだ。休日になると、観光ボランティアが、この場所に何人か詰めている。この「遺跡」の在りし日の姿を、知っている人々から聞くことができるなんて、とても不思議な体験だ。

紅葉の東平

この東平は紅葉がとても美しい。11月中旬頃には、付近は見事な赤や黄色に包まれる。おおよそが閉山後に植林されたスギなどではあるが、その中で紅葉・黄葉が鮮やかに色を添えてくれる。

東平歴史資料館

ここには「東平歴史資料館」がある。入館無料で在りし日の東平の様子や別子銅山の概要を見る事ができる。東平に訪れたのならば、ぜひ見ておきたい。
さて、マイントピア別子を出発して約2時間で歩きでこの東平に到着した。当然道は細いがこの東平までは車でアクセスすることも可能。マイントピア別子からツアーバスも出ている。

第三変電所

さて、ひと休憩したら登山を開始。駐車場から奥へ進み、遊歩道を行くと、広い広場に出る。ここは大正5年から昭和5年まで置かれていた採鉱本部の跡。この広場の奥には「第三通洞」があり、多くの抗夫がここから入坑した。また、籠電車という定期的な電車がこの通洞を通って、山の向こうまで行き来ができた。山の向こうから「通勤」「通学」してくる人も多くいたそうだ。
この広場の奥にレンガ造りの遺構がある。「第三変電所」跡だ。明治37年に建てられた建物で、当時は発電所から贈られてきた高圧電流を、鉱山用・家庭用に変電していた施設。別子銅山の解放されている産業遺産の中では、最も保存状態が良く、当時のままの建物だ。

第三変電所内部

第三変電所内部。内部はどこもかもが被写体だった。この変電所が放置された時のまま、古い一升瓶や缶もそのままに、止まった朽ち果てていく時間を感じられたものだった。しかし、近年、この建物を隠すように生い茂っていた藪が払われ、内部見学ができるように整備がされた。心ない見学者によるこの空間の毀損がとても心配だ。セピアやモノクロームな室内。そして色鮮やかな屋外。この空間の中だけ、時間から取り残されたかのような錯覚に陥るコントラスト。この窓はアートな写真を撮る人の中では密かに人気の被写体だった。しかし最近では故意にガラスが割られた跡もあり、いずれ窓の外の時間がこの中に流れ込んでしまうのは、まさに文字通り時間の問題であろう。

第三変電所の脇に、かつて山岳鉄道の中間駅である「一本松停車場」に向かう道がある。ここからはまた、山道に戻る。しかも、比較的歩きやすく緩やかな道が続く別子銅山にあって、かなり「登山道」に近い道だ。気を引き締め、一気に山の中腹目指して斜面を駆け上る。

別子銅山散策に便利な新居浜のホテル

東平街道と上部鉄道歩き地図

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