木江の古い街並み【広島県・大崎上島サイクリング】

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いくつもの島を経由して四国と本州を結ぶ『しまなみ海道』
それは車だけではなく、自転車でも本州と四国を自走出来るようになっている。そのため、しまなみ海道が通る島の中では、自転車で走る人がとても多い。しまなみ海道が開通してから、この瀬戸内海の島々はサイクリングロードやレンタサイクルが驚くほど充実した。まさに自転車天国。自転車旅行者にとても優しい島々なのである。
しかし、この橋ができるまでの島々にとっての重要な「足」だったのは船。しまなみ海道の開通で相当今となっては船舶会社の経営は苦しいと聞く。それでもしまなみ海道が通っていない島々にとっては船は重要な生活の足。今でも瀬戸内海には多くの船が行き交っている。
その船の中には、高速船でも自転車を載せられる便がいくつかある。昔からの主要交通手段である船と、新しい島の交通手段である自転車のコラボ。まさに、しまなみならではの旅を楽しめる方法である。
しまなみ海道を何度も自転車で走っていると、他の島にも渡りたくなってくる。そこで、今回は自転車を載せられる高速船が就航する「大三島ブルーライン」を使って大三島から大崎上島に渡ることにした。

大三島から自転車を高速船に載せてクルージング

大三島宮浦港

大三島の宮浦港から船旅を出発する。近くに有名な大山祇神社があることから、まるで宮島のような神社の朱塗りの建物を意識した船乗り場がある。
現在、この宮浦港からは大三島ブルーラインのフェリーと快速船が就航している。この宮浦港を出発し、大崎上島の木江港に寄港。続いて再び大三島南部の宗方港に寄港し、四国本土の今治港に至る航路をとる。便によって寄港しない港もあるので、詳細は大三島ブルーラインのホームページで確認願いたい。

大三島宮浦港

宮浦港から沖合を望む。いくつもの島が折り重なるように海に浮かんだ穏やかな海。これが瀬戸内海の代表的な風景。風光明媚という言葉がとにかく良く似合う風景だ。

大三島宮浦港

宮浦港のフェリー乗り場と待合所兼船舶事務所の建物。その左隣は広いバスの車庫になっている。
今回は自転車で大崎上島へ上陸するつもりだ。今治からの高速船も就航しているが、自転車は高速船の後部デッキに載せるとある。50分も潮風に自転車をさらすのは、どうも気が引ける。とはいえ、今治から宮浦港まで自転車で走るのも、船の時間を考えるとちょっときつい。
ならば、せっかくなので大三島のサイクリングも一緒に楽しもうと、島の反対側にある道の駅「多々羅しまなみ公園」に車を置いて自転車で宮浦港まで走ったのだ。宮浦港周辺には、明確に旅客が使える駐車場はなかった。しかし、港湾施設内には車が停められる広いスペースがあり、実際に何台か車が駐車していた。その付近の港にも、車を止めて釣りを楽しんでいる人もいた。ここに車を置いて島に渡ることも可能なのだろうが、念のため船舶会社に電話で確認した方がいいだろう。ちなみに、確実に車を置く方法としては、ここから1kmほど離れた所にある「道の駅しまなみの駅御島」や「大三島藤公園」の駐車場がある。

大三島宮浦港待合室

船の待合所。ここで切符も買う。とても静かで、どこか鄙びた雰囲気がある。いかにも島の施設という感じがぷんぷんと漂う。大崎上島までは片道390円、自転車運送料金は別に240円必要だ。

大三島宮浦港

キップを買って戻ってくると、1隻の船がこちらに向かっている。どうやらあれが乗船する高速船のようだ。
多くの島に囲まれた瀬戸内海はとても静かでまるで湖や川のよう。しかし、波が穏やかでも、細長く複雑に入り組んだ海の潮の流れは複雑で激しい。時々穏やかな海面に一際色が深くなる帯のような場所がある。ここは確実に潮が流れている場所だろうと感じる。

ブルーライン

入港する「ブルーライン1号」
スピードもそこそこ出て、人も多く乗れそうな感じだ。しかし、自転車は本当に載せられるのだろうか?

しまなみ海道高速船

噂の後部デッキ。確かに先客の自転車がくくりつけられている。島の生活物資が入った箱も一緒だ。島々の生活と、旅人の自転車が一緒に海を渡ってくる。このしまなみならではの、ちょっと変わった風景た。
この宮浦港が終点になるので、乗客はすべて降りる。自転車の旅人たちは船を降りると颯爽と走り出した。

しまなみ海道自転車乗船

僕の自転車ともう一人の客が持ち込んだ自転車、2台の自転車を後部デッキに乗せて高速船は出発した。
まるで湖のような瀬戸内海を行く。結論から言うと、大崎上島まで15分弱の船旅だったが、自転車には水しぶきは一切かからなかった。瀬戸内海はとても穏やかで、この船のスピードもそんなに早くはないため、船体がバウンドして水しぶきが派手に上がることはなかった。この日のようなベタ凪の日なら、自転車への海水の被弾はないだろう。
また、宮浦港へ戻る復路では風が結構きつくなり、かなりの白波が立っていたが、それでも水しぶきの被弾は目では確認できなかった。ただ、さすがにノーメンテナンスでは後が怖いので、ボディ拭きとチェーンのオイルの塗り直しのメンテナンスだけは帰宅後すぐに行った。ちなみみに僕の自転車はスタンドを付けているが、きちんとロープでも固定してくれた。
さて、大崎上島で降りる自転車は僕のものだけ。一緒に積まれた自転車の主は、このまま今治まで行くという。しまなみ海道は片道80km。日程や体力から全線走破出来ない場合もある。レンタサイクルなどは乗り捨てができるが、自分の自転車だと輪行(分解して袋に収納すること)して公共交通機関に持ち込まないといけない。しかしこのように途中の島で船に乗り、次の島やゴールの本州・四国本土まで輪行することなく載せられるのはとても便利。わずかな手数料で、輪行の手間の手間が省けるので、しまなみ海道のサイクリングにフェリーや高速船を組み込むのも有効なプランのひとつである。

しまなみ海道高速船

船内の様子。とても多くの座席があるが、乗る人は少ない。ゆっくりとした船旅が楽しめる。

瀬戸内海高速船

多くの船の窓からは並走したり横切ったり、いくつもの船とすれ違う。時には巨大なタンカーとも。海運が盛んな瀬戸内海ならではの、船旅を盛り上げてくれる風景だ。

大崎上島高速船

複雑に入り組んだ島の間を縫うように船は行く。いくつもの島の横を至近距離で進む。これもまた、瀬戸内海の船旅の醍醐味。島の地形や生活の様子が、船の中からでも手に取るようにわかるのが面白い。

大崎上島

大崎上島が近づいてきた。険しい山と海の間、わずかな隙間に建ち並ぶ民家。これもまた、瀬戸内の島々の風景。まるで川のようにも見える穏やかな瀬戸内の海を船はゆっくりと木江港に近づいて行く。

大崎上島

木江の町が近づいてきた。ここは大崎上島の東側の中心となる場所。
大崎上島は約9000人の人口を擁し、平成15年に大崎町、東野町そしてここ木江町が合併し、島ごとひとつの町となった。以前はこの付近は木江町の中心であり、潮待ちの港として、とても栄えた港だそうだ。
瀬戸内海は造船の一大工業地域として発達しており、しまなみの島々をサイクリングていると、造船中の船に何度も出くわす。この島でも、造船工場がいくつかあり、土曜日にも関わらず、忙しそうにクレーンが動かされていた。

大崎上島木江港に自転車で上陸!

大崎上島木江港

船はゆっくりと木江天満港に接岸する。係員がロープを引っ張り、船を桟橋に寄せている間に下船する。僕が下船している間に、船の乗員が自転車を下ろしてくれた。
さて、この木江の桟橋が近づいてきて、僕は自分の記憶を精査する作業を繰り返していた。実はこの大崎上島、今回訪れるのは実に25年ぶり。この島は祖母の故郷であり、幼少のころ、夏休みに何度か訪れ、この桟橋で釣りをしたのを覚えている。確かに、このような赤い桟橋だったのは覚えているが、ずいぶんと記憶と雰囲気が違う。25年前の子供の記憶なんて、とんでもなく大雑把なものなのだろうか。そう思いながら、船を降りてあたりを見回した。その子供のころの大雑把な記憶をたどって、この島を自転車で巡ることにした。

大崎上島木江港

自転車を乗せて木江の桟橋にたどり着いた。大三島からほんの10数分の船旅だった。この赤い桟橋は、僕の記憶の中に残るこの木江の代表的な風景だ。この桟橋で、よく釣りをしたのを覚えている。
しかし、どうも桟橋が覚えている形と違う。本当にここで記憶はあっているのか。それどころか、桟橋の向こう側の陸地の記憶なんて全然残っていない。25年前の記憶は、どうやら幾重にも修正が加えられ、自分だけの違う世界を作っていたようだ。何か他に覚えている所はないか、今から島の中を自転車で巡ってみる。

大崎上島木江港

桟橋から見る南側の風景。海から立ち上がる山々。そして、その海との間に身を寄せ合うように家が軒を連ねる。
奥の方の高台に大きな建物がある。地図で見ると民間のホテルのようだが、以前は国民宿舎だったそうだ。うっすらと、あの高台の上の建物が記憶に残っている。宿泊はしていないが、国民宿舎の温泉に海水浴の後に入った記憶がある。あの建物を目指して走れば、何か見覚えのあるところが見つかるかも知れない。

大崎上島木江港造船所

桟橋から見る北側の風景。造船所のクレーンが何本も立っている。瀬戸内海一帯は造船がとにかく盛ん。昔から海運が非常に発達していたこともあり、瀬戸内海の島には造船所がいくつもある。この日は土曜日にも関わらず、大きな音を立てながら、クレーンが忙しそうに稼働していた。これもまた、瀬戸内の島の風景。昔から変わっていないのだろう。

大崎上島木江港

桟橋の北側には、もうひとつの木江の港、一貫目港がある。大三島の快速船では、ここにも寄港するとあったが寄らなかった。乗る人が待っている、もしくは降りると言う人がいない限りは寄港しないのだろうか。
桟橋をわたり、大崎上島本渡に上陸する。地図を確認するために、木江港の待合室に入る。観光パンフらしきものを探すが、ない。代わりにテレビがつけられていて、マンガがいっぱいある。
待合室から見える瀬戸内海がとても美しく、この穏やかな島の風景の中で、ついついマンガを読みながらゆっくりしたくもなる。いかん、何をしに来たのかそれでは分からない。とりあえず、子供のころの行動範囲はたかが知れている。ゆっくりと付近を見て回ることにする。

港を出て県道を北方面に向かうと、すぐに目についたのは観光案内の看板。
「古い町並み」と案内がある。この町並みは県道と並行して南に約500m程続いている。

大崎上島・木江の古い町並み

木江の古い町並み

左右に建ち並ぶ二階建、三階建の木造建築の家並みがここには残る。九州から京阪神への航路の寄港地として、また風待ち、潮待ちの停留地として栄えてきた面影をそのまま残している。中でも二階、三階の手すり、三階軒下の傘のついた外燈、また屋内にこった建築の模様が施されている。湯治の歓楽が忍ばれる町並みである。
【現地看板より抜粋】

木江の古い町並み

瀬戸内海は海運が栄えた海。陸地と島に囲まれた細長い海は波も穏やかで、海運には持ってこいだったのだろう。しかし瀬戸内海は穏やかな代わりに、その潮の流れはまるで川のように激しい。そのために、このように航路の途中、潮や風の向きが変わるために寄港する港が必要だったのだろう。
また、長距離の航海になるため、食糧や飲料水の補給ができる基地としての役割も担ったそうだ。時は移り、自動車、鉄道運送網が発達し、瀬戸内海を行く船にも潮にも負けないくらいの動力が備えられた今の時代にはこのような潮待ちの港は必要なくなり、今ではひっそりとその過去の繁栄の面影だけを残している。
立ち並ぶ家々はどれも時代を感じさせ、使われなくなったものが多い。時間が止まったかのような穏やかな島だが、時は無情に過ぎていくのを感じる。しかし、多くの建物が1階には店舗を構えていたようで、当時はとても栄えていた通りだったに違いない。

木江の古い町並み

僕が幼少の頃に泊まった旅館を探してみる。僕の子供のころの記憶では、その旅館は古いながらも立派な建物で、手入れされた庭があった。思えば確かに、この付近の古い建物とよく雰囲気が似ている。
しかし、残念ながらその旅館も、僕がまだ大人にならない頃に廃業しており、もう影も形もなかった。それでもこの通りには今も、昔からの旅館が何軒か、営業をしている。

木江の古い町並み

通りの中にはいくつかの店が営業している。旅人相手ではなく、地元のお店。この場所は子供のころ、僕は通ったのかどうか、全く覚えていない。それでも、どこかとても懐かしい感じがある。僕が子供のころ住んでいた大阪の片田舎に雰囲気がとにかく良く似ている。ここにはまだ昭和の景色が残っている。

木江の古い町並み

軒を連ねる建物。もう営業はしていないが、スナックや居酒屋、喫茶店の看板も多くある。ここが以前は人でにぎわう歓楽街だったことが偲ばれる。時間が止まったかのように見える場所だ。
しかし、時間は確実に流れ続けている。ここにはもう、祖母のことを知る人はいないだろうし、祖母が知っている風景はどれだけ残っているのだろう。時間とは、人間独特の概念ゆえ、人がいて初めて流れるものだと思う。もし僕がただの旅人なら、この場所の時間は止まっていると感じるだろう。しかし、この場所に関わりを持つ僕は、この場所の時間は激しく流れていると感じた。時間を動かすのも感じるのも、それは人間なのだと、この時あらためて感じた。

間近で眺める大崎上島の造船所

大崎上島かもめ館

木江の古い街並みの散策を終えたら、自転車を南に向けて走らせる。すると、突然色鮮やかな変わった建物が現れた。これは「かもめ館」という名前の建物。中には自由に入れ、交流スペースとなっているようだ。
塔の頂上から山に渡された通路が特に気になるが、また後で訪れることにして、先を急ごう。かもめ館の向こうには、とっても大きい船が係留されている。傍から見ると、大迫力だ。

大崎上島の造船所

海岸線を道は大きくカーブしながら、坂を登り始める。大きな工場を巻いた瞬間、突然巨大なその姿が現れた。
「宇宙戦艦ヤマト??」
思わずそう言いたくなるくらいの、とても大きな船が陸の上にある。いや、船というよりも、まだ船の形をした張りぼてにも見える。それは建造中の船だった。こんな道の間近から、巨大な造船中の船を見れるのも、瀬戸内海の島々の風景である。

造船所

建造中の船のブリッジがここからでも見える。ガラスもはめられていなければ、照明も計器も見えない。まだ骨組だけのブリッジ。ハイテクの塊の船のまだ原始的な風景。
船の命と魂が今、多くの人の手によって形にされ、後ろに広がる青い海に旅立つその日を待っている。ずっと島々に脈付き育てられる船を造る人々の技と心が、確かにここには息吹いている。

造船所

現代の造船を支える巨大なクレーン。時々警告音を出したと思うと、大きな音を立てて稼働する。昔のこの島の船大工が見たら、びっくりする風景なんだろう。
ちなみにこの造船会社は「佐々木造船」。この大崎上島に本社を置く造船会社で主にタンカー建造がメイン。これまで400隻を超える造船実績があるそうだ。昭和6年の創業で当初は木造船を作っていたというから、とっても大きく躍進した会社だ。

造船所

船の横には、船のパーツと思われる巨大な部品が鎮座する。部品とはいえ、その大きさは家2,3軒分はありそうだ。いずれこの巨大な部品も、さらに大きな船の上に備え付けられるのだろう。

大崎上島の造船所

僕の自転車と比べてみると、その大きさはとんでもなく大きい。しかも、陸に揚げられているので、海に浮かんでいる時よりも、さらに大きく見える。

大崎上島の造船所

船首部分の船底もしっかりと見える。巨大な船の底はこんな風になっているのか。普段は絶対に見れない船の隠れた部分の姿。そして、それを取り囲む巨大な重機すらミニカーのように思わせる巨躯。僕は船好きではないが、こういう姿を見るとついつい見とれてしまう。男というのはみんな、こういうものがやっぱり好きなんだろうな・・・

大崎上島佐々木造船

建造中の船の全体。まだ塗装もされていないが、それは船の形そのものだ。写真下部中央にある車と比べてもその大きさはよくわかる。
さて、こんな大きいものを見ると、一体どれくらいの大きさか知りたくなる。この造船会社のホームページを見たが、造船の単位が並んでいて素人の僕にはよくわからない。てっとり早く、グーグルアースでドックの長さを計ってみたが約120m。とても大きな船に見えたが、その大きさは120mだけしかない。小型の長距離旅客フェリーの大きさといっただろうか。
話は変わるが、同じ瀬戸内海の海域でつくられた「戦艦大和」は全長263mだったというからこの船の実に2倍。今から70年以上も前、こんなクレーンの装備も充実していなかった時代に、もっと大きな船を作ったというのだから、この瀬戸内の造船の歴史と技術はに驚かされる。

瀬戸内海の島

佐々木造船を過ぎ、しばらく走ると、また穏やかな瀬戸内海の風景が見えてくる。先ほどの造船所は圧倒的な迫力を感じたが、ここはのどかな風景。背伸びをすることなく、自然体でいれる、なんだか和める場所。

大崎上島の造船所

振り返る造船所。巨大な工場群の中に、陸に上がった巨大船は同化してしまい、どこにあるのかわからなくなる。島々が重なる穏やかな海は、美しい自然だけでなく、人々が海を渡る英知を詰め込んだ船をももたらす豊かな場所だった。

思わず島のビーチや資料館で長居してしまった。島を去る船の時間は変更するつもりはないので、大急ぎで自転車を走らせて来た道を戻る。

映画に出てきそうな瀬戸内海の島の神社

大崎上島の神社

まず、「昔の町並み」に戻ってきた。この町並みの中に神社へ登る階段をあるのを見つけていた。地元の神社は昔から変わらない場所の代名詞的な存在だ。もし祖母がこの神社に参拝していたのなら、「懐かしい場所」になるだろう。
神社の参道入口は古い街並みから民家の間を少し入った所にひっそりとあった。参道脇の民家は空き家のようだが、それでもとても立派で、歴史も感じる。この風景は古びたとはいえ、昔と何も変わっていない。そんな気がする。

大崎上島の神社

参道を登ると大きな木があり、その向こうに社が現れた。小さいながらもとても立派な感じがする。小さな子供が遊び、大人たちが祭に酔いしれる。そんなシーンが思い浮かんでくる、そんな場所だった。

大崎上島の神社

参道から振り返る木江の昔の町並み。以前は潮待ち・風待ちの港として多くの船が立ち寄った賑やかな港町。その面影が今でも感じられる

大崎上島の神社

神社の参道。明治43年という字が読み取れる。この石碑は何を記念して建てられたのかわ分からない。でも、この年代に建てられたものだとすれば、確実に祖母の子供時代、この石碑はここにあったはずだ。この風景は、祖母が見たとすれば、あまり変わっていないものだと何となく確信した。

かつて賑わった島の古い街並みをポタリング

大崎上島の町並み

昔の町並みを後にしたら、木江港には戻らす、そのまま県道を北上し、木江の中心部を目指した。
この付近にも時代と当時の華やかさを感じさせる建物がとても多く残っている。

大崎上島の町並み

県道沿いにあった神社。旧町役場や警察署の近くにあるので、絶対に祖母もこの風景は見ているはずだ。そう思い、自転車をとめて写真を1枚。

大崎上島の町並み

木江の海沿いの風景。何とも言えない、素朴な島の風景。
時間が止まったというより、タイムスリップして数十年前のこの島に訪れたような気すらする。

大崎上島の町並み

この島が栄えていた当時は瀬戸内海の海運がとにかく盛んだった。しかし、鉄道やトラックの陸上輸送にそれらはとって変わられた。今でも瀬戸内海を行く船には強力な動力が備えられ、流れの速い瀬戸内海ですら寄港することなく乗り切るようになった。
この港の瀬戸内海航路の一端としての役目はもう終わった。当時の華やかさをそのままに古びていく建物がこの島ではよく目立つ。しかし、その古い建物の向こうで、土曜日にも関わらず忙しそうに巨大なクレーンが稼働している。この大崎上島は昔から造船でも栄えた島。今でもいくつもの造船所がこの島にあり、海外からの巨大なタンカー製造の注文も多く受けている。途絶えた歴史と、今も脈々と続く歴史。この島では泊まった時間と流れ続ける時間、2つの顔が見れる不思議な場所だ。

大崎上島の町並み

大崎上島をサイクリングしているとすごく違和感がある。古い町並みながら、その建物の立派さがそう感じさせている。
普通の民家がなんと4階建ての純和風木造住宅。まるで城の天守閣を思わせる建物は、なかなか他では見ることは少ない。当時、どれだけこの場所が栄えていたかを思わせる風景だ。

一貫目港

木江港に入る前に、快速船が乗船・下船する客がいなかったのでパスした「一貫目港」にやってきた。港の入口はとても細く、小さな看板があるだけ。その小さな看板がなければ、建物の奥にある桟橋の存在にすら気付かなかった。
真っ赤な桟橋から見る風景は、いくつもの島々を重ねて浮かべた青い海の風景。これが、瀬戸内海の風景だ。

大崎上島木江の古い町並み

一貫目港と木江中心部の間にも古い町並みが残る。その一角にある、昔ながらの丸ポストとたばこ屋。まるで昭和30年代に間違ってやってきたような、そんな風景。

大崎上島木江の古い町並み

木江中心部の海沿いまで戻ってきた。右側にある建物がやけに気になった。木造の大きな立派な建物で、3階建てだ。
おそらく、この港がとても栄えていたころの旅館だったのだろう。そういえば、僕が子供のころ、この島に訪れた時に泊まった旅館がこのような造りだったのを思い出した。子供ながらに、とても時代を感じる重厚な建物だったのを記憶している。船員たちが長い航海の途中、島でゆっくりと過ごした、そんな建物だったのだろう。

大崎上島木江の古い町並み

自転車で走りながらも、時々目を奪われる立派な建物。地方の豪商が住んだような建物が、今でもここには所狭しと軒を連ねている。

大崎上島木江の古い町並み

黒壁の立派な建物。古い街並みの中でもひときわ存在感があり、当時も相当豊かな人が暮らしたのだと想像できる。
今でも十分使えそうな建物だが、中は物置のようになっている。時代の流れがとても非情に思えた瞬間だった。

瀬戸内海の島

タイムアップ。出来るだけいろんな所を廻ろうと早足で木江の町を散策したが、ついに僕の記憶に合致するところはなかった。
やはり子供のころの記憶には、海で遊んだり、魚釣りをしたりした、楽しい記憶しか残っていないのだろう。
出港5分前に、大三島の宮浦港までの乗船券と自転車の手荷物料金を支払い、桟橋に出た。ややすると、島影から真っ白な船が現れ、海の上を滑るようにこちらに向かってきた。
5時間という島の滞在時間は長いと思っていたが短すぎた。昼食もとらずに、島の中を駆け巡った時間は短かったが、多くの時間を思い出すことができた。これで1枚でも、撮った写真の中に祖母が思い出を見つけてくれれば、なおいいのだが。
到着した高速船に船員に自転車を乗せてもらい、キャビンに乗り込んだ。今治からの乗客はすべてここ、木江で降りて行った。ここから「しまなみ海道」で地つながりになっている大三島に向かう旅客は僕ひとりだ。かつては船でしか渡れなかったこの瀬戸内海の島々は、今はいくつもの橋で繋がれている。自動車でが簡単に島にやってこれる。そんなしまなみの橋がかかる島に向かう船の中は今はとっても静かだった。

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