別子銅山のツガザクラと西赤石山のアケボノツツジ
最近、「東洋のマチュピチュ」でとても賑わっている別子銅山。石見銀山に続き、佐渡金山とあわせて「金・銀・銅」で世界遺産になろうという動きもにわかに真実味を帯びてきた。
実際、別子銅山は世界遺産級の価値があると思う。江戸時代から昭和48年迄、一つの企業が300年近くも鉱山を経営したというのは世界でも例がない。経営が一貫されていたおかげて、公害対策にも非常に力を入れられた。もっともその顕著な例としては、閉鎖した工場や鉱山町に植林を施し、即座に森にかえしたということ。ほんの40~100年前、何千人という人が住んでいた町や工場地帯が、今は深く美しい自然に還っている。
森の中に眠る遺跡のよう鉱山街の跡
さて、「東洋のマチュピチュ」と呼ばれている「貯鉱庫」がある「東平(とうなる)」は昭和時代の産業遺産群がある。この東平の山の向こう側に、別子銅山が開発が開始された江戸時代から明治にかけての町の跡が残っている。
毎年5月の20日前後、僕はこの日浦から別子銅山の最高峰、「銅山峰」へ登山する。目的は、銅山峰に咲く高山植物「ツガザクラ」だ。信州のアルプスなどにしか咲かない可憐な高山植物が、人の手によって開発された鉱山跡に咲くのだ。そして銅山峰からは、そのお隣に鎮座する西赤石山(1626m)にかけて群生する「アケボノツツジ」が楽しめる。ほんの少し、一瞬だけ交わるツガザクラとアケボノツツジの開花期を狙い、今年は5月15日に訪れた。ツガザクラの開花期としては少し早いが、その分アケボノツツジの開花期としてはかろうじて残っている日にちだ。
この日はとても天気に恵まれて快晴。ツガザクラやアケボノツツジが咲く時期は、とても登山客で訪れる日浦だが、年々その人の数が増えてくる。この時期は駐車場は満車で、細い山道の所々に点在する付近の広い路肩にも、登山客の車であふれる。世界遺産を目指すなら、解決しないといけない問題のひとつだろう。登山口にある新緑に包まれた「別子ダム」がとても美しく、見事な渓谷美を見せてくれる。
歩き始めて15分ほどすると、突然森の中に見事な石垣が現れる。ここが「小足谷」の集落跡。小学校から劇場、接待館まであったとても大きな町だった。今は深い緑に囲まれているが、当時この周辺には木々はほとんどなかった。
採鉱課長の邸宅や、日本庭園があったといわれる接待館の跡が付近に残されている。別子銅山は、閉山時に木造の建物は撤去されたが、石垣とレンガ造りの構造物は手間がかかったようで撤去されていない。それが、突然森の中に現れる産業遺跡と化している。よく見ると排水溝と思われる跡など、近代インフラの断片もみられる。森の中に埋もれている町の跡は、まさに失われた謎の古代文明をも思わせるが、これらは明治時代の産業遺産である。付近には、酒や味噌を作っていた酒造所の大きなレンガの煙突跡も残されている。
劇場跡。まるで城の城壁を思わせる。土木課、山林課があり、一時は300人近い児童を抱える小学校があった小足谷の集落。今は深い森だが、当時の賑わいを今も垣間見る事ができる。
蘇った森の新緑が美しい別子銅山跡
劇場跡からは川の右岸に渡り、山を登っていく。川沿いにも巨大な暗渠跡や工場跡など、ここが町だった跡が残っている。流れる川の美しさに、ここが開発され煙害などが発生していた工業地帯だったとはとても感じられない。
森の中に目をやると、木々の隙間からしっかりと組まれた石垣が幾つも見る事ができる。当時はこの石垣の上に、人々の生活があったのだろう。そんな石垣の上には今は木々が生い茂っている。人々の生活の跡に育った木々は、美しい新緑を芽吹かせ、とても気持ちの良い香りを一体に漂わせている。
銅山嶺を目指して山を登っていく。この時期、ツガザクラやアケボノツツジの他にも、この鮮やかな新緑と、新緑が放つ香りはとても気持ち良く、心を軽くさせてくれる。
やがて別子銅山で最初の坑道である「歓喜抗」にたどりつく。その上部は「牛車道」か「直登道」の2つにルートが分かれいてる。とちらも「銅山峰」に辿りつくが、ここは「牛車道」を選ぶ。
牛車道は歓喜抗でとれた鉱石を山を越え、海沿いの町の新居浜まで牛を使って下ろした道。幅があり、傾斜も緩やかでとても歩きやすい。別子銅山の砂礫地の特殊な地形をみる事ができ、まるで森林限界を超えた高い山に来た雰囲気を味わえる。
この牛車道からは別子銅山の鉱山町跡を見下ろせる。中央から左の方に流れていく谷、今は深い森だが当時はここに工場と住宅が立ち並び、もくもくと煙が上がっていた。木々も谷にはほとんど生えていなかった。開発され公害まで発生した土地は、見事に自然の中に帰っている。
写真中央下に、石組の、それこそまるでインカ遺跡を思わせる構造物が残っている。これは「蘭塔場」という墓所。別子銅山では落盤、水害や山火事などで多くの命が失われているが、特に1694年の大火災は132人の犠牲者を出した。その犠牲者の供養のために造られたのが蘭塔場であり、今も別子銅山の関係者によるお盆の供養が続けられている。
そして、この牛車道の最後の方に、今回の目的の一つ、ツガザクラが咲く。ツガザクラは銅山峰にも咲くが、この牛車道のツガザクラの方が、真下から写真が撮れる。ツガザクラの花はスズランのように下向きに咲く。ちょうど崖に咲くツガザクラが絶好の被写体になる。「東洋のマチュピチュ」がある東平からもツガザクラが咲く銅山峰に登れるが、日浦から登った方がツガザクラを見る機会が多いのだ。
青空の下、森の中に咲くピンクがとても色鮮やか。おそらくミツバツツシかと思う。青空と新緑がとても気持ちが良く、肺に送り込まれる美しい空気に体がリフレッシュされる。
太陽を一杯に浴びて輝くミツバツツジ。花期は終わりに近いが、まだその美しさを保ってい個体も多い。
牛車道も終盤になると、銅山峰が見えてきた。その向こうに、少し色が違う山が、今日目指すピークである西赤石山だ。銅山峰周辺は、砂礫地帯の地形のため、森林限界になっている。山を登っていく人の姿が、ここからでもしっかりと確認できる。
見渡す四国の深い山々。この日は空気が澄んでおり、ずいぶん向こうの山まで見えた。この手前の山一帯が100年には煙を始終吐き出し続けた工業地帯だったなんて、いまだに思えない。この森の中には、当時の遺跡がいっぱい人知れずに眠っている。
さて、牛車道のいつもツガザクラが咲いてる場所に来たが全然咲いていない。今年は暖冬だったので咲いていると思ったが、最近涼しい日が続いたので今年は遅れているようだ。どうやら暖冬よりも、開花時期の気温の方が影響するらしい。思えば、劇場前にいつも咲いている、ツガザクラより一回り大きく、少し赤みがかかった良く似た花「アカモノ」も今年は全然咲いていなかった。それでも何とか一輪、きれいに咲いている早咲きの個体を見つけた。
銅山越から見るアケボノツツジとツガザクラ
銅山越にたどりついた。昔はこの峠を越え、銅や人々の生活物資が運ばれていた。
ここからは西赤石山の姿をしっかりと望む事が出来る。山肌はアケボノツツジでピンク色に美しく化粧されている。ツガザクラは残念だったが、その分アケボノツツジはまだ美しく迎えてくれそうだ。
見下ろす新居浜市。四国でも有数の工業都市で、住友金属など、住友系の重化学工業が軒を連ねる。この別子銅山を開発した企業とは「住友」。住友が今のような大きなグループに発展した礎こそ、この別子銅山なのだ。
銅山峰付近はツガザクラの保護区になっていて、ロープで群生地には立入制限されている。この銅山峰はツガザクラが咲く日本の南限で、しかも群生する貴重な場所。それにここは、かつては銅山開発の為、煙害が発生し、多くの人が行き来した場所。そんな場所に咲く高山植物は、とにかく貴重だ。
ここでも早咲きの一輪を何とか探し出し、カメラに収めたら少しだけ休憩。さあ、ここから西赤石山を目指して、道は本格的な登山道へと変わる。
「東洋のマチュピチュ」で最近脚光を浴びる「別子銅山」。その別子銅山の明治時代の森になった町の中を登山し、「銅山越」へたどり着いた。以前は多くの人や牛車が鉱石や生活物資を運搬し、工場が煙を吐き続けていたこの銅山越。ここに咲くのはなんと、高山植物の「ツガザクラ」。かつては人が開発した場所に、北アルプスなどで咲く美しい花が日本で一番南の場所に花を咲かせる。四国ではここだけにしか咲かない花だ。
石垣を積み上げられた「峰地蔵」の横からの道が西赤石山に向かう。銅山独特の砂礫地帯の為、地形的に森林限界になっている場所。四国の1000m程度の山の中、しかも街からすぐの山の中で、アルパイン的な風景を楽しめる変わった場所だ。この登り道にもツガザクラが咲いており、この時期の登山者を可憐な姿で励ましてくれる。
アケボノツツジ咲く西赤石山への登山
標高を少しずつ上げていく。すると、向こう側には西日本最高峰の「石鎚山」(1982m)の姿が見え始めた。この銅山峰から石鎚山の姿がこんなにはっきり見えるのは珍しい。この日はとても空気がクリアで霞などもかかっていない。最高のコンディションだ。
山の北側斜面にはまだアケボノツツジが美しく群生している。
所々、アケボノツツジのトンネルをくぐるように道は頂上へと続いている。もう花期は終わりだが、まだ美しく花を咲かせている個体が所々でお出迎えしてくれる。
青空をキャンパスに咲くアケボノツツジのピンクがなんとも色鮮やかで眩しい。新緑の緑もとても映え、眩しい太陽の光が、春の山の風景を鮮やかに描き出していた。
青空の中、逆光で照らしだされるアケボノツツジ。その美しさが際立つ。
頂上に近づくにつれ、岩場が多くなってくる。石鎚山を最奥に、瓶ヶ森、笹ヶ峰が軒を連ねて迫ってくる、標高2000m間近のダイナミックな山容。
所々の岩場のテラスから眺める石鎚山方面の遠望は、とにかく素晴らしい風景だ。高い山々に囲まれるように、写真の下に少しだけ頭を出すのが「西山」(1428m)
写真一番下スレスレに写っている峠が先ほど出発した「銅山越」である。西山と銅山峰付近は、銅山の鉱脈の影響か、砂礫地帯になっていて、さながら信州の森林限界を超えたような風景を楽しめる。
石鎚山方面から左(南)へ目を降ろすと、美しいアケボノツツジの群生。時期はもう終わり頃なので、ピークに訪れたならば、相当美しい風景を楽しめるだろう。
写真中央にあるのが「別子ダム」。車を停めた日浦登山口がある場所。ずいぶんと登ってきたことを実感させてくれる。
新緑が美しい中パッチワークのように深い緑を落とすのは杉などの針葉樹。四国の山では林業が比較的進んでおり、この一帯も住友林業によって大規模に管理されている。しかし、この付近一帯はかつては1万人もすんだ別子銅山の鉱山町。今は深い自然に還っているが、100年前にはもくもくと煙が立ち上る一大工場地帯だったなんて、今では信じられない。この森の中には、多くの産業遺産が今も眠り、この山の下には総延長700kmに及ぶ坑道が、地下1000mまで網の目のように張り巡らされている。明治時代にはあのダムの近くから、山の向こうまでトンネルが完成しており、トロッコ列車でトンネルを抜けて鉱山に「通勤」してくる人がいたのだから驚きだ。
アケボノツツジに励まされながら、どんどんと空が近付いてくる。「ニセピーク」に何度も騙されながら、くじけずに頂上を目指す。
登ってきた道を振り返る。山の色が変わっている所がアケボノツツジの群生地。ピンク色がほとんど残っていないが、見頃の時期なら、一面のピンクでとてもきれいなのに違いない。今度はアケボノツツジだけ狙って、東平から登ってもよさそうだ。
遠くに見えるのは笹ヶ峰と平家平。
山の北側を見下ろすと、建物が見える。あそこが最近「東洋のマチュピチュ」として注目を集める「東平」だ。昭和40年代まで、3000人を超える人が住んでいた「町」である。今は植林によって深い森に還っているが、当時はあの山一面に社宅と工場が立ち並んでいたのである。驚いたことに、あの町と今いる場所の中間くらいの所に、明治時代に山岳鉄道が走っていた。
山岳鉄道の詳細はこちら
東平の空撮風景。車が停まっている駐車時場のすぐ右側、石積みの跡が見えるのが「東洋のマチュピチュ」と称される貯鉱庫跡だ。
周りの森の中には今も病院跡や娯楽場跡の遺跡がひっそりと眠っている。かまどの跡や浴場のあとも、この森の中に人知れずある。滅びた文明の跡のようにも思えるが、なによりもここで「生まれ育った」人が今も現役世代として社会を支えているのだ。遠い過去の話ではなく、昭和3~40年代の町がここ眠っているのだ。
頂上が近付くにつれ、不思議な形の山が見えてきた。「カブト岩」だ。
いかにもこの下に銅の鉱床があると言わんばかりの岩山の「カブト岩」西赤石山の頂上まであと20分という場所で、新居浜市内を見下ろす絶好のロケーション。
先ほど紹介した「別子銅山上部鉄道」の廃線跡を使い、このカブト岩を経由して東平から西赤石山を目指すのが最短の登山ルートである。
頂上に近づくと、まだ美しい花をつけたアケボノツツジも所々に見れる。深い森に落とす鮮やかなピンクには否応なしに目をひかれる。
頂上直下では岩場が連続する。時々アルプスを思わせるような登山道にはワクワクする。とはいえ、登山経験者ならばさほど苦もなく通過できる場所ばかり。ただし道幅は狭いので、人が混むこの時期は交互行き違いに少し時間がかかる。
西赤石山頂上から望む四国の屋根と瀬戸内海
やっとたどりついた西赤石山山頂。この日はとても多くの人か山頂でくつろいでいた。山頂はさほど広くないが、なだらかなので、少し下った所、石鎚山を一望できる崖の上に陣取り、ランチを楽しむ。
頂上からも素晴らしい風景が見える。一番奥の山が石鎚山(1982m 西日本最高峰・百名山)
その手前が瓶ヶ森(1896m 「吉野川」源流の山 三百名山)
その手前左が笹ヶ峰(1859m 三百名山)
標高2000mを超える山がない西日本において、2000m近い名山が幾つも鎮座するこの山域は、まさに四国の屋根というのにふさわしい。
南側にも目を向ける。写真一番右が笹ヶ峰で、その下に、先ほど登った峠の銅山越が砂礫地帯の中にある。写真左側の森は、かつての銅山町で、江戸、明治時代には多くの人が住んでいた。
写真中央の山の笹の原は平家平(1692m)
冬場のもっと空気が澄んだ晴天の日には、太平洋まで見渡せ、足摺岬の地図の地形がそのまま見れる。
西赤石山のすぐ北側には新居浜市と瀬戸内海。四国の屋根は瀬戸内海から一気に2000m近くまで立ち上がる急峻な地形。その為、愛媛は温暖な地でありながら、冬場にはアルプスのように真っ白になった山の眺めを楽しめる。
手前には「カブト岩」
その向こうに見える新居浜市は、この銅山開発でめざましく発展した町。四国有数の工業地帯で、この別子銅山の開発で大財閥となった「住友」の企業城下町である。自然の雄大さとその回復力、近代日本を支えた人々の足跡、そして美しい花々。ただの登山ではなく、自然の奇跡と人々の軌跡を存分に楽しめる、本当に楽しい山旅だった。