別子銅山記念館【住友発展の資料や明治時代の機関車】
日本三大銅山のひとつである「別子銅山」。江戸時代から昭和48年まで、約280年の間、住友が一貫して経営し、巨大企業グループをつくる礎となった銅山だ。
住友グループの礎となった貴重な別子銅山の歴史を展示
そんな別子銅山の歴史や技術を伝える博物館が「別子銅山記念館」。新居浜市から旧別子山に向かう「別子・翠波はな街道」(別子ライン)の入口、市内と山間部の境に広がる山根公園。その公園南側にある大山積神社の境内に記念館はある。そのため、まずは大山積神社の参道を登って記念館に向かう。参道入口に、駐車場があり、階段もそんなに長くないので、頑張って登ろう。
境内に入る。案内看板に気付かなければ、記念館がどこにあるかはとても分かりにくい。実は、花壇のように見える部分すべてが、別子銅山記念館の建物だ。半地下構造になっていて、その屋根には1万本を超えるサツキが植えられており、5月の開花期には見事に一面が真っ赤に燃え上がる。
周囲の自然と調和し、自然に近づけるその建物の設計は、まさに別子銅山を運営した住友家の理念そのもの。別子銅山は、開発地域の移行や閉山によって閉鎖された鉱山街は建物を撤去し、植林によって直ちに自然に還している。閉山からたった40年。そんな短期間で、一大工業地帯が登山を楽しめるほどの大自然に還れているのは、こういった自然を大切にする別子銅山の姿勢の集大成でもある。
別子銅山記念館の内部は住友の発祥の歴史、別子銅山の歴史、鉱山の地質、鉱山の生活・風俗、近代化の技術の紹介がされている。280年もの長きに渡り、一企業が一貫して運営を続けた鉱山は世界的に見ても例がない。そのため、通常なら散逸してもおかしくない充実した鉱山資料がここにはそろっている。そして、長きに渡って別子銅山を運営した住友が、その歴史を後世に語り継ぐため、無料でこの記念館を解放している。平日にも関わらず、多くの人が歴史を学びに、この施設を訪れていた。
特に僕が興味を持ったのは在りし日の別子銅山の古い写真。主に東平や鹿森など、社宅での生活の一部を切り取った写真だ。子供が遊び、大人も笑顔で笑う。その背景には、いっぱいの社宅がならび、電気も通っている。一昔前の昭和の町。その場所は今はまるで古代文明の遺跡のように、ひっそりと森に眠っている。
明治時代の山岳鉄道の上記機関車現物が今も保管
境内には、実際に使われていた車両が展示されている。住友が自社作成した電車、昭和初期に4000mものトンネルを抜けて、山の向こうから「通勤・通学」に使われたかご電車など。
特に貴重なのが屋根の下に大切に展示保管されている機関車。「別子1号蒸気機関車」だ。これは明治26年に開通した「別子鉱山鉄道・上部線」を実際に走っていたドイツ・クラウス社製。機関車。
まだ平野部の町の中にも鉄道がなかった100年以上前。そんな時に、標高1000mを越える山の上に、この機関車が走っていたのだ。とても信じられない。まだヘリコプターやトラックなどない時代。どうやってこんな機関車を1000mもの山の上に持ち上げ、そして下ろしたのかもとても不思議。
別子銅山上鉄道部線の全長は5.5km。険しい山の上、いくつもの谷を橋や暗渠を組んで、たった1年でその線路を完成させたという。諸外国へ追いつこうとした明治時代の日本の力強さをまじまじと感じる。現在、上部鉄道跡は廃線となって山の中にひっそりと眠る。しかし、その跡をたどると、橋や停車場の跡など、当時の技術の結晶が遺構となって、在りし日を偲ばせてくれる。
最後に大山積神社を参拝。大山積神社は同県大三島にあり、全国の三島神社の総本山である「大山祇神社」の分社。海の神であり、かつ山の神でもある。別子銅山開山に伴い、分霊し、祭られたのが始まり。
別子銅山は歴史とともに、採鉱場所が山の上から地下へと移っていた。その都度、本部と鉱山町も移行し、それと同時に大山積神社も山から一緒に遷座してきた。
ちなみに旧別子銅山エリアを散策すると、以前に大山積神社が鎮座していた場所の跡を見る事ができる。石段の上には広い境内。そしていくつかの碑石なども残る。
現在はこの地に鎮座しているが、別子銅山の歴史とそこで働く人を見守ってきた神社。今も新居浜に暮らす人からは厚い信仰を受けているはずだ。
別子銅山記念館
住所: 愛媛県新居浜市角野新田町3-13
電話: 0897-41-2200
営業時間: 9:00~16:00
休業日: 月曜、祝日(祝日が日曜の場合は開館、12月29日~1月3日、10月の新居浜祭り期間は休み)
交通: 松山自動車道・新居浜ICより車で約20分
(インターを出て左折、高速道路沿いの道を走り、山根公園を抜ければ5分強で到着)
料金: 無料
駐車場: 約10台(大型バス専用駐車場2台あり)
【投稿時最終訪問 2011年10月】