大和間符【別子銅山江戸時代の坑道跡】

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江戸時代から昭和48年まで、300年近くにわたり銅を生み続けた別子銅山。標高1200mを超える山の上から採鉱がはじまり、最終的には海面下1000m以下まで掘り進められた巨大銅山。山の中には、当時の坑道や工場跡がひっそりと残っている。
別子銅山が開かれたのは1691年。一番最初に掘られた坑道である「歓喜抗」は今も残るが、入口は崩壊のため新しく整備された。その歓喜坑とほぼ同時に開かれ、今もその入口を当時のままの姿で残している坑道がある。それが「大和間符(まぶ)」だ。

山の中にひっそりと残る江戸時代の坑道跡

別子銅山登山道

大和間符は、牛車道と笹ヶ峰の縦走路との分岐すぐそばにある。笹ヶ峰への縦走路を20mも行けば、さらに分岐路にでる。標識はないが、右側へ登ると、すぐに大和間符に到着する。また、銅山峰の送電鉄塔から南側に下る道に入れば、3,4分で大和間符にだどりつく。

大和間歩

道端にぽっかりと空いた穴。これが「大和間符」だ。「間符」とは坑道の昔の呼び名。
この大和間符では別子銅山の300年の歴史において、ひとつ事件が起きている。大和間符は別子銅山のひとつの坑道として開かれて数年後の1695年。北側から鉱山開発をしていた西条藩・立川銅山の大黒間符と地中でつながってしまった。そのことで境界争いが勃発し、江戸幕府が裁きを下すという事態に発展している。
決着は分水嶺を境界とする別子銅山側の主張が認められた形。その約70年後、立川銅山は経営不振のため、別子銅山に合併される。大正・昭和には別子銅山の本拠地が山の北側に移っていく。立川銅山との合併で山の北側の採掘権を最終的に手にし、付近一帯の鉱脈を占有したことで、一大鉱山へ発展することができたと思われる。別子銅山の発展により、巨大財閥の「住友」が成長していく。

当時のまま残る江戸時代の鉱山開発の跡

大和間符

大和間符の坑道。当時の姿のまま、しかも崩壊せずに残っている。大和間符は別子銅山の中でも最も古い坑道のひとつ。開山時の坑道が今もそのままの姿で残っているのは貴重だ。
おとな一人、身をかがめてやっと入れるくらいの大きさ。明治時代には日本で初めてダイナマイトを導入し、大規模坑道の開発を行っていた別子銅山。しかし、江戸時代にはまだノミなどでの手掘り。狭くて真っ暗な中、身をかがめて人力で掘り進めていたのだろう。
現在は岩などでしっかりと入口は固められていて、中に入る事はできない。積まれた岩の向こうにはどんな地下世界が広がっているか。想像しただけで、少しワクワクする。

別子銅山大露頭

大和間符のすぐ横にある大露頭。かつての鉱山開発は、まず地表に現れている鉱石を見つける事から始めたという。地表に現れている鉱床の一部が露頭という形で、地面から露出している。これを見つけた先人は、喜び勇んでここに穴を穿ったのだろう。
この露頭は冬にも雪を積まないという。金属を含んだ岩なので、地熱を地表までしっかりと伝えてくるのだろうか。しかし、触ってみたが、特に温かくはない。
僕たち素人が見れば、ただの赤茶けた岩。しかし、見る人が見れば、これは宝のありかを示すもの。今はひっそりとした山の中。しかしかつては、この岩の姿に導かれるように多くの人がここに集まっていたに違いない。過ぎ行く時間の中、再び元の山の中に還っていく。忘れられていく過去の光栄は今もなお、その誇らしげな姿をここに残していた。

大和間符

東平駐車場より徒歩約1時間50分
日浦登山口より徒歩約1時間50分

※登山装備が必要です

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