別子銅山第二通洞と寛永谷の遺構

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日本三大銅山のひとつ「別子銅山」。愛媛県新居浜市の急峻な山の中にあり、日本を代表する企業グループ「住友」の発展の礎になった銅山だ。かつては標高1000mを越える山中から海面下1000mまで、700キロにも及ぶ坑道が張り巡らされていた。しかし、40年前の閉山をもって銅山は自然に還され、今は深い山の中、緑の中に当時の遺構が眠っている。登山道脇にある遺構は公開されているが、人知れず山中で眠っている忘れられた遺構も数多くある。

そんな遺構の中でもどこにあるかわからなかった遺構の場所がついに明らかになった。謎の遺構と5月末に咲く高山植物を探しに、今回は別子銅山の深部を探索する。

東洋のマチュピチュ「東平」より更なる遺構を求めて

東平発電所導水管

別子銅山の入口は山の北側の東平(とおなる)、南側の日浦がある。今回は東平から入山。東平は近年「東洋のマチュピチュ」として、巨大な産業遺産群が人気を博し、大勢の人が訪れる。そのくせ東平に向かう道はとても狭いので敬遠していたが、今回は観光客の入らない早朝に車を走らせる。

東平へ向かう途中、東平発電所へ発電の為に水を落とす導水管を横切る。あまり知られていないが、この東平発電所の落差は599mで日本第2位。なんとこの水、山の向こう側の別子ダムをはじめ、別子銅山を流れ落ちる3つの谷の水を地下水路であつめ、ここから一気に山の下まで落としている。今回の探検は、この水源となる谷の取水口に関係する遺構だ。この東平発電所のほかに、別子銅山には明治時代の発電所の遺構もある。それが道の駅「マイントピア別子」にある端出場発電所。明治時代の発電所にも関わらず、597mもの落差を誇り、当時は東洋一の規模だったそうだ。

別子銅山で栄えた新居浜市は急峻な山脈が一気に瀬戸内海に落ち込んでおり、水資源は乏しい。逆に、別子銅山を越えた南側は、四国一の大河「吉野川」の源流地帯になっていて、豊富な水がある。いくつものダムや水路をつくり、水を山の南側から北側に導いて有効活用している。豊かな自然が残る山々には、鉱山開発の跡と今も活用される数々の産業インフラが密かに息づいている。

東洋のマチュピチュ

東平に到着。駐車場の真下が「東洋のマチュピチュ」の代名詞ともいえる貯鉱庫・索道場の遺構になっている。

マチュピチュらしい写真を撮るには、階段で下まで降りる必要があるが、時間がないので今回はパス。駐車場にトイレがあるので、用を足してから、さらに奥の登山者用駐車場まで車を進める。

まだ8時というのに、登山者用の駐車場はほぼ満車だった。ツガザクラの咲く時期には登山者がとにかく多い。アケボノツツジもまだ咲いている事もあり、この日の別子銅山の登山者はシーズンでは一番の賑わいだろう。

別子銅山第三変電所

駐車場から谷沿いの遊歩道を歩くと広場に出る。広場の脇には古い洋館が残っている。それが「第三変電所」跡だ。第三発電所は明治37年に建築され、水力発電所から送られてくる高圧電流家庭用と鉱山用の電気に変圧していた施設。変電施設が備えられたレンガ造りの建物はとても堅固。雨漏りの跡もなく、今でも中で生活できるような空間が保たれている。
レンガ壁に埋め込まれたレトロな窓から差し込む光。この風景が僕は大好きで、東平から別子銅山に入山すれば、必ずこの遺構に立ち寄る。第三変電所は他の遺構と違い、立ち入り禁止にもなっていなければ補強・補修も何もされていない。朽ち果てていく廃墟に、自己責任で立ち入るのだ。踏み抜きそうな床板などあるので注意が必要。また、意味のない破壊や落書きは厳に慎みたい。今もこのような良好な状態で残っている明治時代のレンガ造りの建物は、とても貴重なものだ。「近代化産業遺産」や「登録有形文化財」に登録されてもおかしくない。

第三変電所

第三変電所の魅力といえば、当時のモノが今もたくさん残っている事。昭和43年まで東平の設備が稼働していたので、ここにある物は40年ほど前の物だろう。朽ち果てていて銘柄などはわからなくなっているが、形状からして平成時代以降の物は無い。もし、平成以降とわかるものがあれば、それは「ゴミ」という。当時のものがそのまま朽ち果てていくこの空間は、まるで別の時間が流れているようでとても不思議な気持ちになる。密かに写真の撮影ポイントとしての人気も高まっている。

別子銅山第三通洞

東平の一番奥にあるのが「第三通洞」だ。かつて、東平に採鉱本部が置かれていた時は、ここから抗夫たちがトロッコに乗って入山していった。通洞の前にある広場はトロッコ列車の基地や採鉱本部が建てられてた名残。なんと、谷を埋め立ててその下に暗渠をつくり、川の水を通している。山の中にある不自然なほどに広い平地は、明治時代に大規模な埋め立て工事をして作られた人工の土地だった。

驚くほどの明治・大正時代の技術。その結晶がこの第三通洞。延長1818mの通洞で、途中2020mの日浦通洞と連絡し、山向こうの日浦(別子銅山北側登山口付近)まで貫通している。この総延長3838mの通洞にはかご電車が昭和初期に通され、山の向こう側からの通勤・通学をこのトンネルをくぐって大勢の人がしていたのだ。

現在の第三通洞は固く門を閉ざされており、内部も閉塞が完了している。それでも鉄格子の向こうには、はるか彼方真っ暗な闇の中に通洞は続いていて、冷ややかな空気を吐き出している。ここは迷路のような何百キロにも及ぶ坑道の入口なのだ。

さて、今回の「探検」はこの第三通洞の上部を横切って、寛永谷を遡上する。目指すは別子銅山の歴史で表舞台に出る事がなかった、幻の「第二通洞」だ。

別子銅山には「通洞」と呼ばれる大きな坑道がある。水平に掘られた坑道で、採掘した鉱物を搬出する主たる坑口にあたる。別子銅山には第一から第四まで番号を付された通洞が存在する。

別子銅山の通洞

第一通洞

別子銅山はじめての坑道「歓喜坑」など、南側斜面で産出した粗銅を北側に運ぶために設けられた坑道。延長1021m、明治15年完成。北側の出口は日本初の山岳鉄道の停車場になった。

第三通洞

明治35年完成、延長1820m。日浦通洞と連絡することで、総延長4000mとなり、山の北側と南側を貫通する。昭和初期にはトロッコ列車でこの通洞をくぐり、通勤・通学も行われていた。

第四通洞

大正4年完成、延長4596m。道の駅「マイントピア別子」に残る別子銅山最後の拠点。

・・・あれ?第二通洞は??

長く別子銅山に訪れていたが、第二通洞はどこにもなく、案内板などにも載っていない。そんな第二通洞が、最近になって発見されたとネットで見かけるようになった。それならば僕も行くしかない。

寛永谷を遡上すればザクザク出てくる遺構たち

寛永谷入口

第二通洞に向かうには、寛永谷を遡上する。東平の第三通洞から銅山峰ヒュッテに向かう登山道にその入口がある。
登山道を歩き始めてすぐ、「寛永谷取水口(行き止まり)」と書かれた看板がある。ここが今回の探検ルートへの入口だ。この先は一般登山道でなく、地図には載っていない。「東平発電所」の施設が寛永谷にはあるために、保守のための道はあるが、自己責任で進む。発電所の付帯施設を通過するが、くれぐれも中に侵入したり、操作・破損しないように気をつける。

第三通洞上部

さきほど眺めた「第三通洞」の真上を通過するようにして、寛永谷に入り込む。しっかりとがっちりと組まれているはずの石垣の上にも、今は木々が根を下ろしている。

寛永谷への道

寛永谷沿いの道。地図に無い道とはいえ、発電所関係施設の保守ルートになっているので、道はよく整備されている。所々、レンガ造りの遺構などが点在しており、この谷にも銅山の施設があったとうかがえる。

新寛永谷横坑

しばらく道を進むと、目の前に突然坑道が現れた。見たことも聞いたこともない遺構。心躍る。

新寛永谷横坑

「新寛永谷横坑」と書かれた坑道。入口付近はコンクリートでしっかりと固められているが、その奥は素掘りの坑道が暗闇へと飲み込まれていく。工具や電線も引かれいて、時々人が入っているようだ。入口の鉄格子には簡単な南京錠だけで封鎖されている。
坑道の中からは水が流れ出し、坑口前にはトロッコの軌道も一部残っている。もしかしたら東平発電所の地下水路に連絡していて、メンテナンスに今も使われているのかもしれない。
【第三通洞出発より約10分】

寛永谷登山道

新寛永谷横坑への橋の手前、看板に導かれるように道は登っていく。この道の登り口にも封鎖された昔の坑道の坑口がある。

火薬庫風回し

道の途中、「火薬庫風回し」と表札が置かれた遺構があった。穴が開けられていたと思われる場所はしっかりと石垣で閉塞されている。火薬庫が万一暴発した際、爆風が重要施設を破壊しないように、何もないところに爆風を逃す喚起口の役目をしていたと思われる。
【新寛永谷横坑から3分】

第二通洞への道

途中道が三叉路になる。右に行けば(写真では直進)、目指す「寛永谷取水口」
左に行けば「柳谷」とある。
おそらく東平から銅山峰ヒュッテに向かう道のさらに上部に出るのだろう。
【火薬庫風回しより1分】

柳谷の寛永谷入口

【参向情報】
もうひとつの寛永谷取水口への入口。東平から銅山峰ヒュッテに向かう登山道のさらに上にある。おそらく先ほどの「柳谷」への道はここに下りてくるのだろう。

第二通洞への登山道

先に進むと、突然斜面を登っていく道がある。赤テープがいくつか巻かれているのが目印だ。道を直進しても進めるように見えるが、突然道が途切れる。
ここはこの斜面を登っていく。はるか上まで登るように見えても、すぐに谷と水平な道へと変わる。
【三叉路分岐より4分】

寛永谷横坑

「寛永谷横坑」に到着。これは山向こうの柳谷にある「柳谷取水口」から集めた水を、この横坑を通して寛永谷に流している。
横坑からの水で水量が増えた寛永谷の向こう側には更なる取水口があるはず。この取水口から地下で別子ダムから引かれた水と合わさり、東平から一気に600mを落とされて、東平発電所のタービンを回している。
【赤テープの分岐より約5分】

寛永谷横坑上部

横坑から上部への道を探すが見当たらない。方法としては、この施設内を通行するしかない。しかし横坑施設には立ち入り禁止と看板が・・・
この先にある取水口へ看板で導いておいて「立ち入り禁止」とはこれ如何に。とりあえず、道が見当たらないので、通り抜けだけいさせてただく。当然横坑内部への侵入や施設の操作などはご法度。

寛永谷横坑の通路

勢いよく水が流れる音を聞きながら、寛永谷横坑のコンクリートの通路の上を進む。通路は再び、森の中に消えていく。

寛永谷横坑上部の道

森の中には延々とパイプが続いている。水がこの中を流れ落ちていく音が静かな森の中に大きく響く。どうやら柳谷の水だけでなく、上部の寛永谷取水口からの水もこの横坑に導いているようだ。パイプは重要な発電所の施設。踏んだり傷つけたりしないように、さらに谷を登っていく。

寛永谷の遺構

対岸には立派な石垣と、壁の遺構がある。形状からすると、収銅所のようだ。
この寛永谷にはいくつもの坑道が点在している。ここで坑道の排水に含まれる重金属を沈殿して取り除いていたのだろう。そんな産業の跡が古の失われた古代文明のようにも見える。

寛永谷遺構

寛永谷川の左岸には、まるで城壁のような巨大な石垣が残っている。今は深い森の中だが、当時は多くの鉱山施設が軒を連ねた一大工業地帯だったはず。明治時代の産業地帯が、平成の次代には深い深い人をも寄せ付けない森の中になっている。

寛永谷取水口

「寛永谷取水口」についに到着。寛永谷横坑からずっと続いていたパイプは、この施設から伸びていた。
先ほどの寛永谷横坑と同じく、施設を迂回する道は見つからない。先に進むため、施設の上を通行だけさせていただく。
【寛永谷横坑から20分】

寛永谷の取水口

寛永谷取水口を越えると、コンクリートの水路がもう少し続く。川が小さな滝のようになっていてる所に水門が見える。あそこが取水口だろう。

寛永谷の取水口

寛永谷の取水口。谷を流れる川に堤を築き、水を水路に流し込んでいる。小さな谷の流れだが、こんな流れを何本も集め、山の上から落とす力で電気が作られている。
水資源に乏しい新居浜だが、鉱山開発で培った技術で水を集め、巨大な工業都市の電力と水資源をまかなっている。

寛永谷の取水口行き止まり

さて、看板にあったとおり、この取水口から先は道がない。行き止まりだ。谷を行こうにも小さな滝は登れそうにない。ここは取水口のある奥の急斜面をよじ登る事にする。崩れやすい地面だが、何となく踏み跡があるようにも見える。
斜面をよじ登った先も道はない。とにかく森の中を進もう。あと、どれだけこの森の中を進めば第二通洞は見つかるのだろう・・・

ついに発見!!幻の「第二通洞」

別子銅山第二通洞

え? あった~!?
森の中をかき分けて進む覚悟をして歩き出したものの10秒後に、その姿が目の中に飛び込んできた。地面に穿たれた、今もぱっくりと口を開いた巨大な坑道。これこそ幻の「第二通洞」だ。しかもご親切に看板まである。
寛永谷取水口からものの2分。こんなに近いなら看板も「第二通洞 (行き止まり)」くらいで出してほしいものだ。確かにこんな危なっかしい遺構、公にはできそうにないが・・・

別子銅山第二通洞

第二通洞は明治22年、ここ寛永谷から当時の採鉱本部があった小足谷の疎水道との連絡を目指して着工。しかし、予想外に水が湧き出たため、明治25年に工事は中止。その後、先ほどの東平の第三通洞などの開通により、未完成のまま放置されたとある。
その坑口は他とは違い隠されることなく露わにされている。まるで深い深い地下の中に誘うかのように。未完成ということもあり、現在の発電施設には該当しないので、施設保安の為に侵入を防ぐ必要はない。さらには、第二通洞は銅山の坑道として使われていないので、鉱山保安法による入口の閉塞には該当しないのだろう。
気持ち積み上げた石垣で、入ってはいけないというアピールがなされている。いや、もしかしたら不届きな輩が、坑口を全面に覆った石垣を過去に崩してしまったとか・・・

別子銅山第二通洞内部

第二通洞の内部。坑道は透明な水に満たされている。坑口から激しく水が流れ出しているが、実際は入口に積まれた石垣が堰の役割を果たしていて、この中は流れというより淀みになっている。
それでも恐ろしいくらいに青みがかかった透明な水。どことなく「魔性」という言葉がぴったりに思える、清冽というより妖しく冷たいという水だ。川に水を垂れ流している段階でここには鉱毒はないだろうが、当然がちがちの硬水だろう。
石垣を跨げば坑内への侵入は容易だ。しかしこれだけ澄みきっている水。浅く見えても確実にパンツくらいは濡らしそうな水深の部分もある。それに何よりも恐ろしいのは木製の支保坑が相当に腐食していること。おそらく明治時代当時のもので、何のメンテナンスもなくそのまま水に浸かっているのだ。いつ崩落してもおかしくはない。実際、10m先で崩落が起きている。ついつい中に入ってみたくなるが、その行為はハイリスク・ノーリターン。厳に慎みたい。危険すぎる。
しかしこの通洞はどこまで続いているのだろう。その先はどうなっているのだろう。真っ暗闇に消えていくこの先を思うと、やはりドキドキワクワクしてくる。おそらく1500mほどの総延長になったであろう第二通洞。工期も3年あった。相当にこの先は長そうだ。坑口から水があふれ出す音に、この先の静寂はかき消されている。ひんやりとした冷気は感じるが、風の流れはない。
こんな地下世界が、今いる別子銅山の地下に何百キロと網の目のように張り巡らされている。日の目を見る事も無く銅山開発に貢献できなかった無念の第二通洞。しかし平成の世になり、別子銅山の閉ざされた世界をこうやって今も見せてくれる。そして何より、その幻となった原因の流水は、今は寛永谷取水口から引き取られ、発電の為に利用されている。
水力発電の為に多くの坑道を山々に打ち抜かれているが、この第二通洞は期せずに山の地下からの水の収集に成功したと言える。いや、この第二通洞の流水を利用して、東平発電所の建設の際にこの場所に取水口を設置したのかもしれない。
幻の第二通洞。その場所も存在も知られていなかったのに、これだけ道のそばにあるとは思わなかった。別子銅山の中でも、現在に明治時代のそのままの形を残す、特級の存在を誇る産業遺産だった。
【第三通洞から第二通洞まで 歩行時間45分】

第二通洞から先にも静かに眠る遺構がいっぱい!

別子銅山第二通洞

ついに発見した「第二通洞」。それは寛永谷取水口のすぐ上にあった。道なき道の探索が必要かと思っていたが、道なき道はほんの数十メートルだけだ。
さて、ここから第三通洞まで戻って再び銅山峰まで登り返すには相当に時間がかかる。このまま寛永谷川を遡り、銅山峰ヒュッテへ続く水平道に出た方が早そうだ。ここから本当の「道なき道」の散策となる。
まずは第二通洞の右側から谷へと降りてみる。ルートはない。出来るだけ谷と水平に進み、谷が上がってきたところで合流する。

別子銅山第二通洞上部の谷

谷底に再び降りてきた。谷底には錆びついた金属の物体が落ちている。ここからの道は道なき道というより、失われた道。
この寛永谷はかつていくつもの坑道が設けられていた谷である。収銅所や索道などの鉱山施設もあったと聞く。この谷はかつては人や物資が行きかっていたはず。今はそんな面影はなく、誰に看取られることなく朽ち果てていくその残骸だけが、史実をかろうじて伝えている。

別子銅山第二通洞付近の遺構

錆びつき朽ち果てていくのは何かの部品のようで、ギアがある。明らかに人為的なもので、しかも高度。こんな深い谷底で自然に飲み込まれていくこの風景はとても不思議だ。

寛永谷上部

寛永谷の遡上を開始する。大きな石が転がる大自然の谷に見えるが、本当にそうならとても危険な遡上。しかし、谷の両側を見てみると、いたるところに石垣が積まれている。かつてはこの谷は、簡易に護岸されていたり、何か施設が川岸にあったことが伺える。
谷に転がっている石もおそらく崩れた石垣が流出したものだろう。組みやすいように割られたり選ばれた石は谷底でがっちりと再び組み合っている。そのため、びっくりするくらいに歩きやすく、比較的容易にと進んでいける。時々浮石やどうしても歩きにくい場所があるが、登山経験がある程度持っている人には何ら問題のない道だ。
ちょうど北アルプスのガレ場を行く感じに近い。思った以上に短時間で水平道まで出れそうだ。ドコモの携帯の電波も谷底にも関わらず、比較的入りやすかった。ここから水平道までは、ただひたすらに谷を遡れば到着できる。
思った以上に安心なルートだが、自分の責任において石の上を進む必要がある。この先は水量が一気に減るが、それでも水の流れを渡らないといけない場所もあるので注意が必要。当然、悪天候時のこのルートへの侵入はお勧めできない。

寛永谷の露頭

しばらく行くと、谷が一気に狭まる。狭まった部分には水が集まるため、この部分は水を渡りながら進む。よく見ると、川底が一面茶色になっている。これは銅の露頭だろうか。そうなると、この付近に坑道があってもおかしくはない。

寛永谷

谷の先には木が何本かまとまって倒れていた。くぐって通るのも可能だが腰が痛そうだ・・・
ふと見ると、右岸(川上に向かい左側)に何か道の跡らしいものが見える。谷底から這い上がり、この道の跡らしいところを進んでみる。

寛永間歩

しばらく進むと、林の中に巨大な石垣が現れる。その石垣の角を曲がってみると、そこに坑道跡が現れた。
これが「寛永間符」だ。寛永間符は江戸時代の坑道で、後期は排水坑道として使われていたようだ。現在は石垣でしっかりと閉塞・埋戻しされているが、寛永間符から谷へとパイプが伸び、水が今も流れ出している。
【第二通洞より約30分】

寛永間歩

寛永間符の付近は石垣が張り巡らされている。もはや廃墟を通り過ぎて遺跡の状態になっているが、ここにはかつて建物が並んでいたはずだ。
木々が生え、森になった足元には、導水管など森にはあるはずのない遺構が転がっている。かつての人の賑わいが、今は森の中。道があったであろう跡を先に進む。

寛永間歩ズリ山

寛永間符の遺構の中を進もうとしたが、生い茂った低木に行く手をふさがれ、やはり前に進めない。昔の最先端の産業の跡が、今は進むのも困難な森になっている。これが別子銅山の魅力ではあり、人を容易に寄せ付けない障害にもなっている。
仕方なく、灌木をかき分けて再び川へと戻る。ちょうど、ズリ山があったであろう場所に出てきた。ここには木々が生えておらず、ここが人の手が入った場所だとかろうじて伝えてくれている。ここから谷底に再び戻り、上流を目指す。

寛永谷上部

まるで高山の登山に来たように思える。荒々しく岩が転がる沢は、まるで高山の登山風景だ。新緑のさらに頭上に、荒々しい岩肌が聳えていれば、それはもう北アルプスそのもの。
しかし、そんな風景に不釣り合いなパイプが、山間から谷に飛び出している。パイプの行先を目で追うと、山の斜面に何やら遺構かありそうだ。

新長尾坑

谷から少しだけ上ると、「新長尾坑」があった。この看板も谷底からも見える。聞いたこともない坑道の登場に驚かされる。

新長尾坑坑口

新長尾坑の坑口。閉塞されたというより、崩落した感じがある。抗口をのぞいてみると、中に真っ暗な空間が続いていて、この先に深い深い坑道が続いているのがわかる。
中の様子はとても興味深いが、残念な事に先ほど、第二通洞に隠すものもない露わな坑道の中をみせて頂いた。こんなちらリズムでは残念ながら興奮度合いはかなり低い。
新長尾坑の前には木片や鉄片が散乱している。かつてこの付近は抗夫たちが行きかう場所だったのだろうが、今はそんな事も想像すらできない。平成の世、ここを訪れる人は、物好きな登山者だけだ。
【寛永間符から約5分】

寛永谷上部

再び谷の上部を目指してさらに遡上。石垣か、鉱山独特の岩盤か。谷には大きな石がいくつも転がっている。しかし、それらは行く手を阻むのではなく、登山者の足場となって道のように遡上を助けてくれている。
もしかすると、崩れた石ではなく、開山時に人為的に石を人の手で組みなおしていたのかもしれない。僕がしているのと同じように、この上部の坑道への移動の為に、人が歩ける沢にしていたのかもしれない。
所々土砂崩れか、ズリ山の崩れか、それとも石垣の崩れか・・・
大きく斜面が崩れた石で覆い尽くされている所がある。

寛永谷遡上

しばらく遡上すると、急に谷が狭まる。ふと見ると、この谷の左右に人為的なものを感じる。
右岸には不自然に広い斜面が広がり、左岸には不自然な沢らしきものがある。両側に遺構があったことは間違いなさそうだ。
右岸には「太平坑」があったようだが、今回は気づかなかった。太平坑についての探索はまた次回。今回は左岸の探索に向かう。

新太平坑貯鉱庫入口

谷から左岸に入ると、小さな沢がある。いや、沢というには不自然で、かつての道だったようだ。
その証拠に、錆びついた鉄板やドラムや何かポットのようなものが、自然に飲み込まれるかのようにそこで朽ち果てている。そんな道とも沢筋とも思える場所を上流に向かってみる。

新太平坑貯鉱庫付近

沢はすぐに途切れる。その場所には巨大な石垣がそびえたっていた。木々に囲まれて、森の中に入らないともうその存在に気付かないほどだ。
石垣の一部が切れて、その上部へと導いている。今は木々が生え、岩が崩れた斜面だが、かつては階段になっていたのだろう。木々をつかみながら、石垣の上へと這いずりあがる。

新太平坑貯鉱庫

「うぉっ、なんじゃこりゃ~」
石垣の上に出た瞬間、超ド級の遺構に思わず歓喜の声を上げてしまった。まさかこんなに大きく、原型を留めた遺構が、誰も立ち入る事のない深い山の中で人知れず静かに眠っているとは。
当然これが何か示す看板がなかったので、発見当時は「謎の遺構」だった。どこかに坑口があるのかと近づこうかと思ったが、周囲の森の深さと万一崩れ落ちた時のダメージの大きさに、正面への接近は断念する。
帰宅後にネットで確認すると、この遺構は「新太平坑の貯鉱庫」だった。「東洋のマチュピチュ」と称されるのも東平の貯鉱庫。強固な貯鉱庫は歳月を経てもしっかりとその姿を残すのかもしれない。

新太平坑の貯鉱庫

鉱石を堰き止めた丸太の壁は、放棄されてから50年以上も経つ為、朽ち落ちている。足元の地面には落ちた丸太が散乱していて、足を乗せると、まるで土のように簡単に踏み抜いてしまった。
かつては巨大な重量を支えた鉄骨はすでに錆びつき、一部は朽ちている。しかしまだ今でもこの巨大な遺構を支える骨組みとしては機能している。見たことも聞いたこともない遺構が目の前にある高揚感。そんな高揚感でお腹がいっぱいになり、付近の散策をあまりせずにこの場を後にしてしまったのは悔やまれる。おそらくこの付近のどこかに新太平坑の坑口や索道の跡もあったはずだ。またの機会に散策したい。
【新長尾坑から約10分】
さて、新太平坑の貯鉱庫から水平道へ出るルートを探してみたが、低木がぎっしりと高密度で茂っており、先に進めそうにない。仕方なく、寛永谷に戻り、再び谷を遡上する。少し登ると、やがて谷に突き出した倒木に赤テープが巻いているのが見える。ここが水平道との合流点だ。

寛永谷最上部

倒木を越えて少しだけ上ると、左右の森の入口に赤テープが巻いており、踏み跡が残っているのがみえる。ここから右岸の踏み跡に入れば、銅山峰ヒュッテなどがある、別子銅山の一般登山ルートへと安全に戻れる。
ちなみに左岸へ行く道は、遡上した寛永谷のひとつ西側の谷に入り、登山者用の駐車場へと直接下りていく。道は笹に覆われ、かなり足元が見えない状態。この先に「新太平坑」の坑道跡があると思われる。秋にもう一度ここを訪れ、このルートで下山をしてみたい。
さらに寛永谷は水平道よりも上部へ続き、途中で二股に分岐している。この上にもまだ坑道跡はあるようだが、この日の探索はここまで。
【新太平坑貯鉱庫より約5分】

寛永谷上部の水平道

寛永谷から銅山峰ヒュッテ方向に向かうと、道は石垣でしっかりと固められている。土管などの埋没もあり、何かここに遺構があったことは容易に感じられる。おそらく太平坑だと思うが、本格的な探索は、下草が少なくなった秋に再び訪れる事にしよう。

馬の背登山道上部の坑道

馬の背登山道と合流。ここからは一般の登山道だ。
馬の背登山道の合流の道標から、太平坑としるされた方向に10歩ほど歩くと、ここにも名もなき坑道が眠っている。ここで本日の別子銅山の探検は終了。ここからは地図にある道を使い、銅山峰への登頂を目指す。
目指すは北アルプスに7月に咲く高山植物「ツガザクラ」
5月中旬は、このツガザクラが銅山峰一面に咲き誇るのだ。
【寛永谷出口から約10分】

5月なら鉱山に咲く高山植物「ツガザクラ」を見ておきたい

銅山越

寛永谷の遺構探検を終え、別子銅山のかつての難所「銅山越」まで登ってきた。別子銅山で産出した銅を海に面した新居浜まで担ぎ下ろすために越えた峠である。
5月中旬、この銅山越は別子銅山北側の入口「東平」、南側の入口「日浦」から大勢の登山客が訪れる。おそらくシーズンで一番の賑わいだ。
その目当ては高山植物の「ツガザクラ」
北アルプスでは7月に咲く花が、四国では5月に花をつける。しかも標高1200m少々の場所でかつ、以前は鉱山として産業が発展し、荒涼としていた山でだ。その不思議さに、ツガザクラが咲く時期にはいつもこの銅山越を訪れる。深い森の斜面を抜け稜線に出ると、そこには今までと違った風景が広がっている。低木しか生えない砂礫地帯はまるで森林限界を越えた世界。おそらく、銅山独特の地形と瀬戸内海から一気に立ち上がる地形が背の高い木の生育を阻んでいるのだろう。北アルプスなら標高2500m級の風景。高山植物がここに咲くのも何となく納得できる。

ツガザクラ

可憐に咲くツガザクラ。花の大きさはまるで米粒のように小さく、かなり近づいてみないとその姿は楽しめない。
このツガザクラは四国で群生で自生しているのは、この銅山越付近のみ。かつ、ツガザクラの咲く南限とされている。本来ならばツガザクラは四国には自生できない植物だが、鉱山という地質と海から一気に立ち上がる立地で奇跡的に自生環境が整っている。それだけにこの付近のツガザクラは手厚く保護されていて、ツガザクラの自生地区にはロープが張られ立ち入ることはできない。

別子銅山銅山越

銅山越付近の風景。砂礫に草が生えているだけ。地質的に森林限界を越えている。まるで信州の高山に来たような錯覚に陥る。
しかし、ここは四国の元鉱山。眼下には新居浜の工業都市が手を伸ばせば届くような距離で広がっている。

別子銅山のツガザクラ

以前は個体数が減っているのではないかと危惧したが、開花時期を逃さなければ結構な数に出会うことができる。5月の陽光に輝く白く小さな花はとても美しい。厳しい環境の中に咲く花は、ひときわ輝く。

別子銅山のツガザクラ群生

ツガザクラの群生。砂礫地に這いつくばり、身を寄せ合うように自生している。この風景だけを見ると、まるで日本アルプスに訪れたかのようにも思えてくる。しかしここは1300m弱の標高しかなく、海が眼下に広がる場所。そして、百年ほど前にはこの付近は鉱山開発で荒れており、付近は禿山で高炉が煙を上げていた場所だ。力強く自然的にも人為的にも厳しい環境を生き抜いている。

銅山峰

銅山峰(1294m)の頂上。今まで銅山峰という言葉はよく聞いたが、地図上にはどこが銅山峰かは記されていなかった。僕的には、銅山越が銅山峰と思っていたのだが、今年新しい標識が立てられていた。なるほど、ここが銅山峰だったのか。
銅山越から約5分。西山に続く稜線の小高いピークのひとつがそうだ。頂上とその付近には立木がないので、最高の展望を楽しめる。頂上から見る稜線は森林限界を越えており、まるで2000m級の山に来たかのように思える。そんな高山はたいていは国立公園や国定公園に指定されているので、送電鉄塔が建っているのはまれだ。高山にも思えるこの場所に送電鉄塔が建っているのは珍しい光景だ。今も山の南側の豊富な水や水力発電された電気が銅山を越え、新居浜市の工業地帯に送られている。さらにはこの山の地下には何百キロにも及ぶ坑道がクモの巣のように張り巡らさせている。そして、深い森の中にはかつての産業の遺跡が、今も静かに眠っている。そう思うと、ここは何とも不思議な風景に思える。

銅山峰から見下ろす寛永谷

先ほど遡上した寛永谷。谷に連なるように、赤茶けた銅を含んだ地質が稜線から谷へと落ち込んでいる。
かつてはこの谷沿いにいくつもの坑道があり、それらの関連施設が軒を連ねていた。今は深い森の谷の底。40年前に終焉した銅山は、平成の世には自然豊かな山へと再び還っている。自然の力強さと、自然に還そうとした銅山主の住友の尽力が成せる業だ。

銅山峰から望む西山

銅山峰のさら向こうに続く道をゆくと、標高1428mの西山へと続く。西山から向こうは再び深い森に閉ざされるが、その先は笹ヶ峰、伊予富士、瓶ヶ森など。標高1800m級の名山をいくつも経て、西日本最高峰、標高1982mの石鎚山へと稜線は雲の上へと登っていく。

アケボノツツジの西赤石山

銅山峰から東方向を望むと、この時期ひときわ赤く山肌が染まった山がある。標高1625mの「西赤石山」だ。

アケボノツツジで有名な山で、5月初旬から中旬にはアケボノツツジが山一面に咲き乱れる。アケボノツツジの次にツガザクラが咲くが、気候によってはどちらの花も楽しめる年もある。多くの登山者が、ツガザクラを楽しんだ後、アケボノツツジの待つ西赤石山へと登っていく。

ツガザクラ

今年は暖冬で雪も少なく、花期が読めなかったが、通常どおりに咲いてくれた(登山日は5月18日)
その美しい姿に癒され、銅山峰を後にする。

銅山峰ヒュッテ

銅山峰から20分ほど下ると、「銅山峰ヒュッテ」に出る。この山域では珍しく、食事付きで宿泊できる山小屋だ。ちょうど山小屋の方が布団を干しているところで、その風景はまるで銅山時代の日常のようにも思えた。
しかし、この場所はかつては日本初の山岳鉄道の始発駅のプラットフォーム。ここから機関車が銅を引っ張り、1000mを越える山の中を煙を上げて走り出したのだ。しかも、まだ下界でも鉄道が無い明治時代に。

第一通洞内部

銅山峰ヒュッテのすぐ脇にあるのが「第一通洞」だ。初期の別子銅山の主要坑道はすべて山の南側にあった。そのため、生産した銅は先ほどの銅山越を経由して人力で運搬する過酷な労働が必要だった。
この第一通洞は明治9年に開通した延長1020mの通洞。山の南側へ過酷な峠越えの必要がなくなり、さらには中には軌道が通され楽に荷物も運搬できたようだ。坑道から第一通洞で運ばれた銅はここで汽車に乗せられ、下界へと運び出されていた。そんな明治時代の銅山を支えたインフラも現在はその役目を終えて静かに眠る。入口から10mほどのところで、閉塞されたか崩れたか。土砂でその奥にはもう進めなくなっている。

第一通洞付近の遺構

東平へ下る道。途中、岩場に穿たれた穴がレンガで閉塞されている場所がある。意味ありげにバルブが設置されている。何の遺構かはわからないが、とにかく味がある。
今回の別子銅山の探検はこれで終了。第二通洞の発見など、一般公開されていない遺跡を大量に発見でき、とても満足。
来るたびに新しい発見がある別子銅山。10年も通っているのにまだ飽きない。今度は何を見つけられるか、楽しみだ。

別子銅山第二通洞地図

今回の探検地図

青・・・一般登山道
オレンジ・・・地図にない道
赤色・・・道無し、谷の遡上

別子銅山登山に便利なホテル

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4件のフィードバック

  1. おはようございます。
    突然のメッセージ失礼いたします。
    最近、別子銅山に関心を持ち始めた30代男です。
    一昨日、東平から馬の背経由で新太平坑、銅山峰へいきました。
    このページを昨夜知り、第二通洞の存在を知りました。
    新太平坑の下を覗くと、太平坑の貯蔵庫の錆びた鉄骨が見えましたが、下り口が道からず断念しました…
    第二通洞から馬の背の登山道へはハードな道のりでしょうか?
    大変分かりやすい写真と説明ありがとうございました。

    • ご訪問ありがとうございます。
      第二通洞から馬の背までの道は失われていますが、かつては開発されていただけあって、見た目以上に歩きやすい印象で、危険な個所は少なかったです。
      ただし、歩ける場所やルートを見極められる登山経験は必要だと思います。また、思わぬ崩壊もあるかもしれませんので気を付けてください。
      川を遡りますので、雨の後も増水して進めなくなり危険です。
      夏場は草が多くなるので降雪前の晩秋や雪が解けた春などが散策にもってこいの季節です。

      参考になれば幸いです。

      • KUMA.さま
        返信ありがとうございます。
        初めに、ブログを参考にさせて頂いたおかげで、第二通洞経由で新太平坑まで行くことができましたので、お礼させていただきます。

        本当にありがとうございました。

        詳細に情報が記載されたブログがなければ行けなかったと思います。
        そして、11月27日に実際に遡上してみましたので、現状を報告させていただきます。

        寛永谷の取水口までは、順調に行けましたが、思った以上に倒木が多く、かわすのに思った以上に時間を要しました。第二通洞前も倒木が重なり、写真のような面影はありませんでした…
        ただ、入り口の積み石は残っており、通洞からは水も流れも確認できました。
        続いて、寛永間符、新長尾坑はすぐに発見できましたが、長尾坑は探すのに苦労しました。また、長尾坑を40メートル程上るとには「索道のポスト」があると情報を得ていましたが、発見することができず、来年の課題にすることとしました。
        最後は、新太平坑の貯鉱庫は谷から上手く見つけることが出来なかったので、結局、馬の背の平行ルートの上から下へ降りる形で確認しに行きました。やはり、思った以上に風化が進んでいましたので近寄るのが怖かった印象です。
        そして、馬の背との水平道とぶつかり、銅山越のお地蔵様に無事に遡上ができたお礼をして下山しました。
        現在、30代ですが、正直な所、今、遡上しておいて良かったと思いました。理由は
        2つあります。
        1つ目は、倒木が多く、体力的にもハードだったこと
        2つ目は風化が思った以上に進んでいたこと
        本当は、大黒間符や都築間符も見つけたかったのですが、今回は断念しました。
        ブログを拝見させていただき、別子銅山の奥深さ、当時の写真を拝見させて頂くと、ますます「別子銅山」について知りたいと思いました。
        資料館等で当時の写真を拝見すると、高度経済成長期における近代化産業をこの目で見てみたかったです。そして、当時の話を拝聴してみたかったです。
        私の周りには別子銅山に興味を持つ方もなく、私自身も登山仲間や別子銅山を歩く仲間がいないので、別子銅山を歩く先輩がいたら心強いと思っております。
        今後も、ゆっくりKUMA.さまのブログを閲覧させていただき、別子銅山について知っていきたいと思います。
        先週に日曜にマイントピアから東平のガイドバスツアーに参加させていただいたのをきっかけに、別子銅山に魅了されました。
        今度は、別子銅山の書籍や文献等を読み、実際に足を運び、今後、40代、50代になっても続くであろう別子銅山について知ることを、一生のライフワークにできたらと思っております。
        長文失礼いたしました。

        • やぶしさま

          ご参考になって良かったです。
          転勤で愛媛を離れてしまい、別子銅山に行けなくなったので、現状を知れてよかったです。
          上部鉄道跡や貯水池跡など、他にも一般登山道から外れて探索した場所があるのですが、まだサイトにアップできていません。
          また少しずつアップしていきたいと思います。

          よろしくお願いします。

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