谷中墓地【渋沢栄一と徳川慶喜の墓所】

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山手線日暮里駅の南側に広がる、広大な敷地を持つ谷中墓地。約7000もの墓がある東京都でも有数の霊園です。明治7年に明治政府が公営の墓所として整備しており、歴史上の人物や著名人が多数眠っていることでも知られています。中でも幕末・明治に活躍した日本資本主義の父といわれる渋沢栄一や、その主君で徳川幕府最後の将軍である徳川慶喜の墓が有名です。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」で描かれた渋沢栄一と徳川慶喜の墓参りはもちろん、東京都は思えない静かで広大な自然豊かな場所。日本の発展や文化を支えた先人を偲びながら、散策することができます。

徳川慶喜が眠る墓にも様々な歴史とドラマ

谷中霊園

谷中墓地は正式名称は「谷中霊園」。下町・寺町が広がる東京の一等地に広大な敷地を持っています。付近には高層ビルがなく、スカイツリーがなければここが東京の中心とは思えないほど静かな場所です。

徳川慶喜の墓

墓地の中に厳重に鉄柵に囲まれた場所が徳川慶喜の墓地です。葵の御門がある門前からお墓参りをすることができます。なお、谷中霊園に隣接する寛永寺は徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、歴代将軍の6人の墓地があります。

徳川慶喜の墓

墓所の中央には2つの大きな墓があり、左側が徳川慶喜公で右側が正室(徳川 美賀子)が眠っています。榊が花受けに飾られていることからわかるように、神道様式の墓所となっています。本来徳川家は仏教徒ですが、慶喜は明治天皇から特別に許可をもらい、新たに家を創設して神式で祭られています。仏教徒の慶喜公が神道で埋葬されたのは明治天皇に敬意を示したからと言われており、墓の形も皇族と同じように円墳状となっています。なお、徳川慶喜は土葬で埋葬されており、孫から火葬されて慶喜の墓の左側に代々の墓として合祀されています。

勝精の墓

徳川慶喜の墓から少しはなれたところに、慶喜が出た一宮家や幕臣の勝海舟の墓があります。そして斜向かいには、この勝精の墓があります。勝精は徳川慶喜の10男で、勝海舟の養子となり実業家として活躍した人物です。

数多くの有名人が眠る遺跡のような谷中墓地

谷中墓地

まるで迷路の様な谷中霊園。木々に囲まれた広大な墓地の中には鳥居があったりモニュメントがあったりして、まるで遺跡のようです。慶喜の墓の裏には今も多くの花が飾られたお墓があります。ここには劇団四季の創始者の浅利慶太さんが眠っており、今も多くもファンの方が参拝しているようでした。

谷中墓地

谷中霊園には元内閣総理大臣・鳩山一郎や俳優・森繁久彌、日本画家・横山大観といった著名人の墓がたくさんあります。遺族が同意したお墓は園内にも場所が記されています。多くの財をなした方の墓所も多いため、立派な墓所は異世界のような雰囲気です。谷中霊園では故人に対する節度と配慮を持っている限り、著名人の墓所を参拝することは許可されています。

渋沢栄一と二人の妻・千代と兼子が静かに眠る墓

渋沢栄一の墓

墓地の中に大きな枝を広げるタブノキの向こうに、開けた一角があります。ここが渋沢栄一が眠るお墓です。右隣には先妻の千代(尾高千代)、左隣には後妻の兼子(伊藤兼子)のお墓が寄り添うようにあります。主君であった徳川慶喜の墓から東へ約100m離れた場所に控えるように建っており、主君の方向を向いています。この世を去ってもなお、主君への忠義を貫いているかのように思えます。

渋沢栄一と千代と兼子の墓

渋沢栄一の墓石には、雅号の「青淵」が刻まれています。孫などの他の渋沢家の子孫も一緒に静かに眠っています。新しいお札の顔ともなる日本の経済の発展に寄与した人物が眠る場所。渋沢栄一が開いた日本の未来のように、谷中霊園の中でもひときわ明るく開けた場所です。

護国山天王寺

谷中霊園の一角、日暮里駅にほど近い場所に護国山天王寺があります。天王寺は鎌倉時代創建の寺院で、江戸時代には将軍家の祈祷所となっていました。1690年に鋳造された高さ約3mの釈迦牟尼如来坐像が鎮座しており、三遊亭円楽(初代)といった文化人、政治家の墓も多数あります。

■谷中霊園参りに便利な日暮里駅前のホテル

谷中霊園

場所: 東京都台東区谷中7-5-24
電話: 03-3821-4456
営業時間: 8:30~17:30 (管理事務所)
休業日: 12月29日~1月3日 (管理事務所)
入園料: 無料
交通: JR・京成線日暮里駅から徒歩6分
駐車場: なし

【投稿時最終訪問 2020年12月】

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