被爆電車【広島原爆をくぐり抜けた現役車両】

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中国・四国地方の中心である広島市。広島といえば、厳島神社、もみじまんじゅう、広島焼、カキ、広島カープ、・・・いろいろ名物や美味しいものが思い浮かぶ。しかし、忘れてはいけないのは、この広島は世界で初めて核兵器が炸裂させられた都市であること。原子力爆弾が投下されたのは1945年。もう60年以上前の話。広島に訪れても、当時の悲惨な状況がそのまま残っているのは「原爆ドーム」くらいしか僕は知らない。街は活気にあふれ、ここが一面の焼け野原になった事など、全く信じられない。

今も現役!被爆した車両が走る広島電鉄

被爆電車

しかし、広島がそんな賑やかな町になるため、原爆の爆風に身を焦がされながらも今も働き続ける乗り物がある。訪れたのは「広島電鉄」の「広島港駅」。広島電鉄の路面電車の種類はとても多く、レトロな車両も多くある。何両も連結された路面電車やタイムスリップしたような時代を感じる車両が街の中を走り抜ける姿は、鉄道好きでなくてもワクワクする。新型車両の「5100形グリーンムーバーマックス」の横に停車するとてもレトロな車両。とても絵になるが、このボディの前面に記された「651」という車両番号はとても大きな意味を持つ。
広島電鉄で「651」「652」「653」「654」の車両番号をもつ車両は「被爆電車」と呼ばれる。その名の通り、原爆投下時に広島市内を走っていて被爆した電車である。街のほとんどを破壊された広島だが、この広島電鉄は何と原爆投下3日後に一部路線を復旧させた。残されたわずかな車両が頑張って走り、大いに広島の復旧に貢献したそうだ。その時の車両のうち4両が現存しており、いずれも博物館で飾られるべき貴重なものだ。そのうち「651」「652」「653」の3両は驚くべきことに今も現役で運行している。

被爆電車運転席

回送中の651号の運転席を除きこむ。とてもレトロな運転席。アナログな計器が並び、追加装備された近代的な装置もあるが、時代を感じさせる。

被爆電車車内

戦時、原爆投下後、復興の時、そして平成・令和の世を、多くの幾世代もの人を乗せ続けた車内。木製の壁に窓枠、そして木製の床。この電車が原爆の被害を受けたということはにわかに信じがたい。すべての物を破壊しつくしたイメージがある原爆だが、その災禍をくぐり抜けて今もこの電車は市民に愛されている。多くの市民や観光客が今も、このレトロな空間に乗り、市内へと移動していく。

歴史の証人、被爆電車は4台が現存

被爆電車651号

この651号は爆心地から700mのところで被爆したそうだ。至近距離だけに、651号は脱線し半焼。当初は運転もできない状態だったらしい。翌年の1946年3月に復旧され、その後は平成を越えて今の令和の世も働き続けている。1942年に製造された80年前の車両が今も働き続けているのには驚かされる。しかし、それ以上に、原爆の灼熱にその身を焼かれながらも、広島の復旧のために身を粉にし、今も働き続けているのにはもっと驚かされる。
ちなみに、他の車両の歴史は以下の通り。「652」号は被害が少なかったため、原爆投下後数日後に走りだせたそうだ。「653」号は2006年に引退したが、2008年から復活し、主にイベントなどで走行している。「654」号は老朽化のために引退。現在は広島交通科学館に寄贈されている。

被爆電車

昭和が平成となり、さらに新しい令和となった。平和な世になり、広島の町もとても賑やかになった。それでもまだ、原爆に巻き込まれた、650系の被爆車両は走り続ける。多くの新型車両も導入され、もう引退しても構わない。もう十分働いた。それは広島の過去と今を繋ぐ、生き証人として走り続けるのだと感じた。博物館に飾られるより、今も人を乗せて他の電車と同じように走り続ける方がリアリティがある。今回は回送中で乗ることができなかったが、この車両に乗り広島の町を走り抜ければ、感じることは多いと思う。
僕は戦争を知らない。ましてや原爆がどのようなものだったかは知らない。知らないまでも、間違いなくそれらが存在した事は認識し、廃れることなく後世に伝えていかなくてはならないと思う。この電車は、確かに広島に原爆が落とされたその悲惨な事実を刻みつけて、今も走り続けている。多くの人に、過去に起きた悲惨な人類の過ちを、老体に鞭打って必死に今も伝えようとしているように感じた。

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