別子銅山遺構と日本最南限のツガザクラ

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それは日本三大銅山のひとつ。愛媛県新居浜市の山の中にある別子銅山の歴史は長く、1691年(江戸時代後期)から1973年(昭和48年)まで283年にわたり採鉱された。有名な住友グループの発展の主要産業であり、住友が開坑から閉坑まで永きに渡って鉱山を経営した。このような一企業で300年近く採鉱を続けられた鉱山は世界的に見ても例がない。
最盛期には別子銅山には12000人もの人が居住していた。山の中には学校や病院、劇場などが作られた。日本の多くの町に鉄道が敷かれていない時代でも、すでに山の中のこの地には鉄道が通され、当時は愛媛県で第2の都市として栄えていた。しかし、資源の枯古、海面下1000m以上に及んだ坑道の危険性の増加、銅の価格下落などの影響を受け、昭和48年に閉山となった。
当時は山の中に社宅や工場が立ち並び、蜘蛛の巣のように張り巡らされた坑道で抗夫たちが働いていた。今は、その社宅や工場は取り壊され、坑道は閉塞され、人々の生活と開発の跡は森の中に飲み込まれ、深い眠りについている。木を切られ、荒涼した山々は再び深い緑に覆われ、美しい自然を取り戻した。人が自然を開いて営んだ生活の跡が再び自然に飲み込まれていく。別子銅山には、深い山と森の中に、そんな人々の生活と工業の跡がひっそりと眠っている。自然の力強さの前に、人々の営みとは何とも短く儚いものかを感じさせられる。そして、厳しい自然に挑んだ人々の営みを感じることができる。
今回は、この鉱山の跡に、この時期咲く美しい高山植物のツガザクラを楽しみに、山に入った。

新緑が楽しめる別子銅山のツガザクラの季節

新居浜から県道47号線を旧別子村方面へと走らせる。道の駅マイントピア別子を過ぎ、大永山トンネルを抜け、別子ダムのほとりに。ここに別子銅山の南側入口である日浦登山口がある。水洗トイレが最近新しく整備された駐車場だが、台数はさほど多くない。ツガザクラの咲く頃には、多くの登山者が訪れるので、路肩の駐車であふれるので注意が必要だ。

日浦登山口の近くには別子ダムがある。その向こうには平家平(1692m)がそびえる。
さて、ここからツガザクラの自生地である『銅山越』までは約2時間弱の登山だ。登山口標高は約800m。約500mの標高を登るルートとなる。

賑わう日浦登山口
別子銅山登山道

ツガザクラの花期には多くの登山客が別子銅山に入山する。登山口の駐車場はすぐに満車となり、付近の路肩には車がずらりと並ぶ。早朝に到着しなければ、やや離れた場所の駐車になることは覚悟がいる。
なお、別子銅山の北側登山口である東平(とうなる)は整備はされているがとても道が狭い。また南側斜面にツガザクラの群生地があるので、日浦からの入山がオススメだ。

明治時代まで栄えた鉱山街の遺跡

登山開始。さすがに以前はここに多くの人が住んでいただけあって、道はとても歩きやすい。石垣が組まれてフラットにされた広い道なので、歩くスピードも早まる。眩しい新緑と、爽やかな川音に包まれ、どんどん山の中へと入っていく。
10分ほど歩くと、突然森の中に大きな石垣が現れる。そして、その石垣の上には、いくつものお墓が建てられている。歩いてしかこれない、深い山の中に、いくつもの墓石が眠っている景色には驚かされる。ここは、円通寺跡。以前はここにお寺があり、今も災害で山中で亡くなった方や無縁仏を奉っている。
さらに道を進むと今度はさらに巨大な石垣群が現れる。石垣を縫うように続く横道へと導かれると、そこにはレンガ造りの巨大な煙突がひっそりと佇んでいた。

ここは醸造所跡。明治時代、ここで働く抗夫たちの為に、お酒や醤油、みそが作られていた。今は静かに森に抱かれて眠る煙突。しかし100年前は、忙しく煙を空に吐き出しながら働いていたのだ。
石垣群が方々に続くこの場所は、以前は小足谷と呼ばれる大きな集落だった。今も所々に赤レンガの壁が残っている。

登山道を登って行くと、石垣の上にひときわ重厚なレンガの壁が残っている。ここは「小足谷接待館」跡。敷地内には立派な日本庭園があったとも言われ、銅山を訪れる要人の宿泊や接待に使われたそうだ。時には京都から芸者が招かれたというのが驚きだ。

小足谷接待館の奥に、立派な石段とその上に佇む赤レンガの壁がある。「採鉱課長宅」跡である。別子銅山の運営の中核をなす「採鉱課」の最高責任者であった採鉱課長にふさわしい、邸宅跡だ。
これらの建物には排水溝が建物下に掘られており、その建築技術の高さが今でもうかがい知れる。森の中にひっそり眠る当時の栄華の断片。その華やかさに思いを馳せ、そして今ひっそりとここに眠る夢の儚さに感じるものは少なくなかった。

次に現れるのは、長い石垣。この上には、小学校があった。大正4年まで存続した「住友私立小足谷小学校」。最盛期は300人近い生徒が学んでいた。
現在の小学校跡には様々な樹木が植えられている。これは町を森に還す際、どの木がこの山に根付くか、試行錯誤した跡だといわれている。町を森に返した、先人たちの努力の跡が、子供たちの学び舎の跡にひっそりと今も息づく。

長い小学校跡の石垣を抜けると、今度は城の一角と見間違えるような巨大な石垣が現れる。高く積まれた石垣に、石垣上まで続く立派な大階段。これは明治23年に建てられた「小足谷劇場」跡。1000人を越える収容人数を誇り、大阪や京都から有名な芸人を呼び、歌舞伎や芝居が上演されていた。
今では全く当時の栄えぶりを伺い知れない。こんな山の中に、1000人もの人が、芝居に酔っていたのだ。人々の雑踏と笛や太鼓の音が聞こえた当時の音は、深い森に包まれた現在には響いてこない。
劇場跡を抜けると、道は橋を渡り川の右岸へと出る。巨大な遺跡群はいったんここで終了。ここからはゆるやかな登りが続く。道は石垣でしっかりと固められ、山の中に所々、建物があったと思われる石垣や、川を護岸したと思われるレンガが残っている。どんどん登って行くと、突然目の前が開け、広場に出る。

この広場の中心に、こんこんと湧き出す水がある。これは「ダイヤモンド水」。
昭和26年、鉱脈調査でボーリングを行ったところ、地下80mのところで水脈に突き当たった。その時に噴出した水が今もこんこんと湧いており、清涼な水が登山者の喉を潤してくれる。今も工事の際に使った工業用ダイヤモンドのロッドの先端が回収不能となって地下に眠っており、そのためここが「ダイヤモンド水」と呼ばれるようになった。
東屋とトイレがあり、休憩にはもってこいの場所だ。ここで美味しい水で喉を潤し、ひと休憩したら出発だ。ここから登りは厳しくなる。

喉を潤したダイヤモンド水を出発してややすると、橋を渡り、川の左岸にでる。そして、少し登った後、荒野にかかる1本橋のようなワイヤーで吊られた橋で再び川の右岸に戻る。
この時、川の上流を橋の上から眺めると、川が変わった地形になっているのに気付く。

登山道沿いに流れる川にも銅山開発の面影が。川にせり出した岩は、銅を精製した際にできた鉱石のクズが固まったそうだ。その上を雨水が滴り、川に落ちている。深い山の中だが、昔はここに銅の生産が行われる工場が立ち並んでいた。

その橋から少し登ると、また不自然な地形が川に見える。川が大きな巨大な岩にぽっかりと大きな空いた穴をくぐって流れているのだ。今は木々が生い茂ってわからりにくいが、これは暗渠である。川の上に石垣を積み上げて、土地を作ったのだ。この暗渠は病院へと続いていたというのだから驚きだ。
やがて道の分岐点になる。ひとつはそのまま登山道を登る道、もうひとつは川にかかった橋を渡る道。道標にはどちらも銅山越へと続くと書かれている。銅山越に急ぐ場合は多少ではあるが橋を渡る道が早い。登りは橋を渡り、下りに時間に直進する道から下りてくることにする。なお、直進する道はかつての鉱山町跡を通るルートだ。

さて、渡る橋であるが、これが変わった橋である。いかにも、昔にここにあった工場の廃部品を使ったのではないかと思わせる。何本もの組み合わされたパイプが、この地で工場が黙々と稼動していた事実を語っているようだ。

※現在は通常の橋に架けかえられています

登山道を少し外れると、銅山開発の遺構が見つけられる。ここは「第一通洞」という、山を掘りぬいたトンネル。明治19年の完成で、1021mもの長さがある。
ここは南側の入口になるが、北側の入口前には駅があり、明治26年に完成する山岳鉄道の発着駅になっていた。この中がどうなっているかとても気になるが、残念ながら厳重に封印・閉塞されていてその様子は伺いしれない。

また、この第一通洞の上部には2000坪の土地を谷間に造成し、500m以上も地下に掘り進んだ坑道を作った場所がある。
明治28年の完成した「東延」という場所には蒸気機関で地下から鉱石を引き上げる最新鋭の工場も建設されていた。
今も、その造成された石積みの谷間の下は暗渠となっていて、上流から流れてきた川が地下に通されている。
この東延はかなり荒れていて、人間が100年以上も前に造成した場所なので方々に穴があいている。
足もとが悪い今日は散策は控えておくが、レンガ造りの工場の跡や造成の跡、坑道の跡などが残っていて興味深い場所の一つだ。この橋を渡り、急な登りを登りつめたところで道が左右に分岐する。左に行けば銅山越。右へ水路沿いに行けば、『第一通洞』と『東延』へと続く。少し寄り道で、右への道を進む。

少し行くと、そこには巨大な穴がぽっくりと山肌に開いている。ここは『第一通洞』跡。
通洞とは輸送用のトンネルのこと。明治19年にはじめて別子銅山でできた通洞である。この通洞の完成により、物資の輸送は「銅山越」という厳しい峠越えをする必要がなくなり、別子銅山の近代化が進められた。通洞は全長1021m。100年以上も前にこんなに長いトンネルが標高1000mの山の上に掘られたのだから、とても驚きだ。通洞は峠を越えた先の「別子銅山ヒュッテ」のすぐ近くまで続いている。現在内部は閉塞され、その中をうかがい知ることは出来ない。
さて、第一通洞からまだ道は山の方に続いている。この道を進めば、『東延』へとたどり着く。『東延』は明治28年、谷を埋め立て作った2000坪の平坦地。その上に機械場を建設し、長さ526m、49度の傾斜の坑道から、蒸気機関を利用した巻き上げ機を使い採鉱していた。別子銅山の近代化の時代の中心になった場所だ。巨大な石垣がダムのように組まれ、その下には川を流す水路が設けられている。明治の時代にこんな大規模な造成が山奥でされていたなんて信じられない。

さて、この『東延』にはレンガつくりの機械場の跡が残っている。そして、『東延斜坑』跡がぽっくりと地面に穴を開けている(柵があり、入ることはできないが)
ここも探索したい場所ではあるが、この場所は僕自身、別子銅山でも危ない場所だと思っている。暗渠として造成された地面は脆く、崩れたり、何かの跡の大きな穴が地面にぽっくりと穴があいている。今までの場所と違い、軽い気分では、ここには踏み込まない方が良い。今日は登山に集中するため、ここには寄らないことにする。

興味がある方は、以前に東延を訪れた訪問記があるので、そちらでご覧ください。

さて、先ほどのパイプ橋の上の分岐まで戻り、再び銅山越を目指す。やがて道はまた分岐路になる。直進は先ほど、パイプ橋を渡る前に直進していた道である。銅山越には右手の登り道を進む。

登り始めてすぐ、右手にぽっかりと空いた穴に気付く。どうやらここは坑道の換気口跡のようだ。鉄柵で封印はされているが、閉塞はされていない。多くの坑道が閉塞されている中、このように地下とまだつながっている坑道は別子では数少ない。別子の坑道は蜘蛛の巣のようにつながり、海面下1000mまで掘られている。坑道の中からはまるで風呂場のような湿った暖かい空気が吹き出している。もし、この坑道が別子の坑道本体とつながっていれば、ここから2000m以上下の地下の世界から風が吹き出している可能性もある。暗く深く長い坑道を通り抜け、地熱をはらんで吹き出して来る地下からの風を感じ、今は立ち入ることのできない暗黒の世界に思いを馳せる。
恐る恐る、鉄柵の中の坑道をのぞいてみる。朽ち果てた木が組まれた入口の奥は、暗黒の世界。そこから吹き出す生暖かい風は、恐怖をも運んでくる。吹き出す異世界の風に、深い暗闇のに連れ込まれ、閉じ込められそうな錯覚さえも覚える。

もう少し先に行くと、広い広場があり、その奥になにやら建物のようなものがある。ここは『歓喜坑』。1690年に別子銅山で初めて発見された銅の鉱脈を掘り出した、最初の坑道である。これを見つけた時の嬉しさのため、「歓喜」坑と名づけられたそうだ。

坑道から銅を運んだ牛車道に咲くツガザクラ

以前この坑道の入口は朽ち果て崩れていたが、2001年に当時の姿に復元された。内部は完全に閉塞され、うかがい知ることはできない。「歓喜坑」のすぐ横にはその次に掘られた「歓東坑」の入口も復元されている。
歓喜坑を出発し、少し行くと、道は二股に分岐している。どちらも銅山越に到るが、左は「牛車道経由」と書かれている。直進すれば勾配は急だが銅山越への最短ルートだがここは左へ進む「牛車道」がお勧め。採掘した道を牛車に乗せて、はるか下界の新居浜市中心部まで下ろした古の道。遠回りになるが道幅が広く、傾斜も緩やかなので歩きやすい。しかし、歩きやすいだけがこの道を進む理由ではない。この道は、別子銅山独特の地形から発達した砂礫・岩石地帯の中を行く。その風景はまるで森林限界を越えた信州の高山のようだ。そしてそれは、探し求めるツガザクラの絶好の生息域なのだ。

ゆるやかな牛車道を歩いていると、山の下の方に、インカ帝国の遺跡を思わせる構築物があるのに気付く。あれは『蘭塔場』。
別子銅山の事故や災害で亡くなった方の霊を弔う墓所である。1694年に銅山で大火災が発生し、132人が亡くなったのをきっかけに建立された。今でもお盆には、関係者がここまで登り、手厚い供養を欠かさず毎年続けている。

山の斜面から谷間に道が回りこむと、その風景は一変する。深い山の中に、マウンテンバイクででも走れそうな道が続いている。そして、森林限界を越える高地を思わせるような植生の山々と、その上を走る送電線。国立公園である日本アルプスの稜線に林道が通され、送電鉄塔が建てられたようなありえないような景色がここにある。
牛車道は、歓喜坑で採掘した銅を効率よく運ぶために作られた道。それまでの人力での峠越えから、牛車を使った物資の運搬により、飛躍的に銅の生産がすすんだそうだ。以前はこの場所から、下界の新居浜市内までこの道が続いていたというのだから驚きだ。
この周辺の山々は砂礫帯で、木々が成長できない地帯になっている。そのため、低木のみ生育し、岩石が露出している。標高1000mちょっとの場所だが、まるで森林限界上のような世界が広がっている。森林限界上に立つ送電鉄塔という、珍しい風景がここにある。
水平道から少し登り、進む方向を東に代えた水平道に入ってからは、足元や岩の上を注意して歩きたい。このあたりから、「ツガザクラ」が咲いているエリアなのだ。そして、ついに見つけた。今年も小さく可憐な花が、たくましく咲いていた。

登山道には「アカモノ」という花がいたる所に生息している。別名イワハゼというツツジ科の植物で、とても小さな花を初夏に咲かせる。まだ花期は早かったが、咲いているものもいくつかあった。
その姿は目指す「ツガザクラ」にとても似ているが、ツガザクラは砂礫地帯や岩の隙間にしか生えない。土の地面から生えているのはこの「アカモノ」である。

ツガザクラは高山植物の一種。この周辺の山域では別子銅山の峠である銅山越周辺の、限られた場所にだけ咲く。銅山峰はツガザクラが自生する日本最南限に位置し、四国ではここにしか群生しない。銅山峰は低山ながらも、特殊な高山性の砂礫地が発達し、ツガザクラの繁殖が可能になっている。

ツガザクラは主に信州の高い山(北アルプスや御岳など)に咲き、花期は7月。しかし、銅山峰のツガザクラは標高わずか1300mの山に咲く。標高が低いため、花期は5月末と、早くその花を咲かせる。米粒ほどの花は、色や形が桜に似ていて、葉はツガに似ていることからこのような名前がつけられたそうだ。
以前この銅山越の周辺は鉱山開発によって木々はほとんど無いハゲ山になっていた。このツガザクラがいつからここで咲いているか知らない。しかし、人間が破壊しつくした場所に、高山植物がたくましく今を生きている。自然回復が叫ばれる今、このツガザクラはその可能性を示してくれる、頼もしいシンボルでもある。

さて、先ほど紹介した「アカモノ」と何が違うのか。どちらの花も形も大きさもほぼ同じ。だが、アカモノは茎や花の付け根がツガザクラに比べて赤い。葉がツガザクラが松のような形に対して、アカモノは広い葉をしている。
写真の左側がツガザクラ。右側がアカモノである。花期はツガザクラの方が早く、ツガザクラが終わると、アカモノが咲く。

銅山越付近はまるで森林限界上を超えた高山

道を登ると目の前に景色が急に開ける。銅山越(1294m)に到着だ。眼下には、別子銅山によって栄えた工業都市である新居浜市が広がる。今も住友系列の重化学工業が軒を連ねる、住友の企業城下町だ。写真ではわからないが、遠くにはしまなみ海道の来島海峡大橋も見えている。
この日は風が強く、空気がとても澄んでいて、美しい瀬戸内海の遠望が得られた。まるで森林限界を思わせる砂礫帯の世界が、人口10万人を超える町のすぐ上に広がっている。

銅山峰に到着。ここはこの山脈の峠にあたり、標高は約1300m。昔は坑夫が重たい鉱石を担いでこの峠を越え、海のある新居浜市へ下っていたそうだ。付近一帯は砂礫地帯のため、地形的に森林限界を超えているようで、まるでアルプスの山のような風景が広がる。人口11万人の工業都市のすぐ上の山が、こんな風景になっているとは信じられない。この峠を挟んだ新居浜市の向こう側はいくつものダムがある発電地帯。何本もの送電線が今はこの銅山を越えて新居浜市の工場地帯に送られている。まず、信州のアルプスではありえない、森林限界を越える場所に立つ送電鉄塔の姿は独特。

鉱床があるせいか、それとも銅山の開発で長い間ハゲ山にされたせいか。銅山越周辺は砂礫帯が発達しており、木々が生育できない。そのため、信州の高い山で見られる森林限界を越えたような風景がここに広がる。
銅山越はもともと銅山開発されていた地域で、周辺には水源確保のため多くのダムが作られ、電力や工業用水がこの山を越えて新居浜市へと運ばれている。そのため、別子銅山には多くの送電鉄塔が建てられいる。森林限界を越えた世界にこんな巨大な送電鉄塔が建てられている場所は今までここでしか見たことがない。昔、多くの人が銅を背負い越えた峠を、今は電気が黙々と電線を伝い越えていくのだ。

さて、今日の最終目的地はここ。西赤石山(1626m)。この山は、「アケボノツツジ」が群生することで有名な山だ。ピンクの美しい花をつけるアケボノツツジは運が良いとこの時期、ツガザクラの花期と重なるのだ。銅山越を経て西赤石山に登れば、2つの花が楽しめるという訳だ。
しかし、残念ながら、今年は雪が少ない暖冬だったせいか、どうやらアケボノツツジの花はもうほとんど終わっているようだ。例年なら、山肌が鮮やかなピンクで覆われているが、イマイチぱっとしない。ネットでも、今年のアケボノツツジは裏年という情報があったので、西赤石への登山は断念する。この銅山越でゆっくりとツガザクラを楽しむことにする。

ツガザクラの花はスズランのように垂れ下がっている。下から覗き込むように撮ってやるのが一番。多くの登山者が、華麗な高山植物の前にひれ伏して撮影している。その名前の通り、桜の色使いそのままの花と、ツガのような葉が特徴的。

岩肌に咲くツガザクラ。その周辺は高木は自生できない、地形的な森林限界となっている。10万人都市の頭上、標高1300m程の場所が、まるで信州の高い山さながらの風景になっている。
西赤石山には登らないが、そちらに向かう登山道の途中に、ツガザクラの自生地がある。

ツガザクラの花の大きさは米粒大。纏っている水滴の大きさが、その花の小ささを物語る。雨上がりのツガザクラは宝石のような水滴を纏い、とても美しい。青空の下の鮮やかな花もいいが、宝石のような花もまた素晴らしい表情を見せてくれる。

時期が良ければ、とても多くの株が花をつける。

西赤石山への登山道のツガザクラは見れなかったが、ここからは別子銅山跡の全景を眺められる。振り返ると銅山越。その砂礫帯が支配する山は、まるで森林限界を越えた高山のようだ。

見下ろす谷に、ここまで登ってきた道がある。この谷一帯は、以前は鉱山開発のため、工場や住居、学校や商店などが立ち並び、1万人を超える人が住んでいた。明治時代、ここは愛媛県第2の町だったのだ。しかし今、眼下の景色が巨大な町だった面影は全くここからは窺い知ることはできない。ただ、深い森が広がっているだけだ。当時この森は全くなく、裸になった山肌と、煙を上げる工場がこの谷間に張り付いていたのだ。
さて、登山はここで終了。ここから下山することにする。

下山途中、アケボノツツジと出会う。花はしおれてアップでの撮影にはとても絶えられそうにない。新緑を芽吹かせていて、もう花はとっくに終わったことを告げている。今年はツガザクラとアケボノツツジの花は一緒に咲くことがほとんどできなかったようだ。散り行こうとしていても、アケボノツツジの花の色は鮮やかで、新緑と見事なコントラストを見せてくれる。

もうひとつの鉱山街「目出多町」遺跡から下山

銅山越まで戻り、もう一度ツガザクラに別れを告げた後、森になった町へと再び下っていく。
今度は登りに使った牛車道を通らず、歓喜坑へと続く最短ルートを下る。低木しか育たないこの場所は、まるで信州の高山の森林限界を彷彿とさせる。九十九折の道が木々に包まれた頃、登りに進んだ牛車道と分岐路にたどり着く。
その後、歓喜坑を通過し、再び分岐路へ。左へ行けば登りで進んだ道。右へ行けば「目出度町経由登山口」とある。目出度町と書いて「めったまち」と呼ぶ。明治時代、多くの人が住んだ鉱山街跡だ。少し遠回りになるが、大勢の人々が住んだ町の跡を抜けるルートを選択し、右へと進む。
少し歩くと、再び分岐路。直進と右折だ。右折への道標には「蘭塔場・3分」とある。先ほど牛車道から見下ろした、別子銅山の災害や事故で亡くなった方の墓所である。すぐ近くになので、寄り道で右への道を進む。

九十九折の道を登ると、そこに石垣でコの字に囲まれた蘭塔場が現れた。山から見下ろしていた時のイメージより、意外と小さくこじんまりとしている。その石垣の奥には墓標があり、ここが墓であることを痛烈に物語っている。
別子銅山では落盤・崩落事故は当然のこと、大火災や水害、山崩れで、一度に百人を超える犠牲者が出る大惨事も何度かあったそうだ。そんな災害や事故で亡くなった方のための墓所である。今、いつ死ぬかわからないような危険な仕事に携わったり、危険な場所に住まないといけないことはほとんどなくなった。犯罪などもあるが、当時に比べれば安全な町に住み、安全な仕事で生計を立てられる平和な暮らしになった。しかし、今があるのも、先人が命をかけて社会を発展させたおかげではないかとひしひしとここで感じられた。そう思うと、見知らぬ昔の人であろうと、感謝の気持ちが湧いてくる。供え物などはないが、今自分がここにあるお礼と安らかに眠っていただけるよう、祈りを捧げた。
銅山越の稜線に咲き乱れていたが、そかこらを下ると全く見かけなくなったツガザクラが、この蘭塔場の墓標の横に咲いていた。まるで、鉱山の開発から回復した自然が供えた献花のように。
蘭塔場から元の道に戻り、先へ進む。すると、木々が生い茂る森の中に、100年前の人々の生活の跡が今も息づいているのに気付く。

小川の岸は石垣で固められ、その周辺には多くの家があった形跡がある。地面に壷が埋まっていたり、その辺りに放置されていたりと、人が暮らしていた形跡がこの辺りには色濃く残る。さすがに、別子銅山随一の居住地だっただけはある。
この小川は、その頃は水を得る貴重な場所だったのか、それとも排水する汚れた川だったのか。もしくは、ハゲ山にされ、雨水だけ濁流となって流れていくようなところだったのか。遠い昔と今の違いに思いを馳せる。今よりも環境破壊が進み、多くの人が生活している100年前を、今になって深い森の中に探している。登山道は石垣で固められ、その下にはいくつもの段々状になった平地が見える。昔はこの平地に1軒1軒家が軒を連ね、多くの人がこの道を行き交っていたのだろう。

大きな石垣を通りすぎたところで、少し開けた場所に出る。その場所には、何かの台座の跡があり、明らかに寺か神社に使われていたと思われる石が安置されている。ここは大山積神社跡。別子銅山開坑の1691年、同じ愛媛県の大三島の大山祇神社にある分社として建立された。大山祇神社は山の神、海の神、戦いの神として尊崇を集める神社である。
この場所に社が建てられたのは明治25年のこと。広い境内を持ち、別子全山の人の崇拝の中心となり、たくさんの行事がここで行われた。そんな人々の心の拠り所も、今は深い森の中に沈み、静かに眠っている。神社は銅山の中心の移行に伴い、どんどん山の北側へ移動していった町の中心へ奉遷されていった。大正時代に奉遷され、ご神体はここに残っていないが、とても厳かな雰囲気が残る。多くの人々に信じられた神は、その多くの人々の魂が眠るこの地に、秘かに留まり続けているのかも知れない。

大山積神社跡の階段を下り、登山道は続いている。神社の階段は、おそらく立派な石段であり、灯篭が配されていたに違いない。多くの人が参拝に登った階段も、今は朽ち果て脆くも崩れていく。全ての跡が崩れ、森に飲み込まれても、ここに人々が集い神を奉ったその願いと祈りは今も生き続けている気がした。

道を進み、川に合流すると、登りに渡った鉄パイプの橋に出る。ダイヤモンド水付近まで降りてくると、急に晴れ間が空に広がった。ふと見上げると、岩肌から流れ落ちる滝がどこかのテーマパークを思わせる。しかしこの滝の上部は、先ほど訪れた通洞や造成地の暗渠から導かれた人工の川。さながら人口の滝で、その下部は崩れた石垣となっている。ダイヤモンド水を通過し、再び川を渡ると、小足谷集落へと戻る。劇場跡、小学校跡を見返しながら通り過ぎる。ここにある「跡地」はおおよそ見たつもりだが、いつも気になる場所がある。荒れてはいるが、以前は道があったと思われるところがあり、その奥には石段が続いている。今日はその気になった場所へ侵入してみることにした。

中央の大きな石段に向い、左右から石段が連なっている。しかし、この左右の石段の崩壊は激しく、ほとんど原形をとどめていない。何とか崩れた石段を登り、中央の石段に出た。立派な石段を登り、城壁のような石垣の上に出た。

広い平坦地には多くの木々が生育していて、その上には何段にも石段が続いていた。おそらくここに、いくつもの住居が軒を連ねていたのだろう。今はその跡は見る影もない。
森の中に、立派な石垣が何層にも残る、不思議な空間だけを残し、全て町は無に帰した。もはや何もない森の中だが、そこに眠る人の営みの跡は、強烈に何かを訪れる人に訴えかけているようだった。笑い、泣き、食べ、眠り・・・
多くの人の命の営みの跡には、今、木々の命が静かに営まれている。

小足谷の集落跡を抜けると、あっという間に登山口に到着した。ここで登山は終了。初夏を思わせる陽気に汗をいっぱいかいた。これはもう、温泉で汗をゆっくり流すしかないでしょう。
江戸・明治時代の別子銅山遺跡を楽しんだ跡は、昭和の別子銅山遺跡に囲まれた、鉱山の温泉へと向かうことにする。

別子銅山登山に便利なホテル

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