別子銅山 上部鉄道廃線歩き

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日本には多くの「廃線跡」が存在するが、ここほど歴史があり、ワイルドな廃線跡もないだろう。明治26年に完成し、明治44年まで蒸気機関車が走った「別子鉱山鉄道・上部線」は、平地でも鉄道網が十分に発達していないこの時代にも関わらず、標高1000mを越える山の上に開かれた日本初の山岳鉄道。全長は5.5kmで標高1100mの角石原から標高850mの石ヶ山丈を結ぶ。
別子銅山は愛媛県・新居浜市にある江戸時代から昭和48年まで、住友が300年近くも経営した大規模な銅山。閉山後、大規模な植林などで銅山はすっかり森に還り、今は深い森の中にその遺構が埋もれている。この廃線跡は、現在は西赤石山などに登る登山道の一部としても利用されているが、全線歩けるようには一応の整備はされいてる。ただし登山装備と経験が必要となるので、気軽に訪れられる場所ではない。その分、静かな山歩きと、森の中に眠る当時の遺構をいっぱいに楽しむことができる。廃線跡歩きのスタートはマイントピア別子の東平ゾーン。大正時代に採鉱本部があった山の上の鉱山街の後で、現在は「東洋のマチュピチュ」としてその風景が人気を博している。細い道を車で登り、登山者用の駐車場に車を停める。トイレと自動販売機はあるが売店は無いので、食料等はあらかじめ高速道路のインター付近のコンビニで用意しておきたい。

東洋のマチュピチュとして人気の「東平」から廃線歩き

まず駐車場からアスファルトの道を「第三通洞」「第三変電所」の看板を頼りに進む。途中、舗装道路は終わり、人がひとり通れるような細い道になるが、構わず進む。最近の観光客の増加を鑑みてか、おせっかいなほど整備がされた道は、危険な場所はそうない。
少し進むと道は急に開け、広場に出る。ここは谷を埋め立てて暗渠にした場所。第3通洞の入口前として、整備された場所で火薬庫などが今も残る。そして、そのい一段高くなった所に残るレンガ造りの遺構。これが「第三変電所」跡だ。明治36年に建てられた歴史的な建物。内部は当時のまま放置されており、ノスタルジックな雰囲気がとても美しい。床板など踏み抜きそうな箇所もあるので、破損しないように内部を見学したい。落書きなどはもってのほかだ。

第三変電所跡からもう少し奥に進むと、突然山肌にぽっかり空いたトンネルに出会う。これが「第三通洞」だ。第三通洞は東延斜坑の底部へと続く通洞で全長1795mを明治35年に貫通。さらに、東延斜坑底部から山の向こう側の「日浦」へ延びる「日浦通洞」も明治44年に完成。別子の山を貫く全長約4kmの通洞が明治時代にここに完成していたのには驚きだ。100年も前にこの通洞を使って、電車で多くの人が山の向こうからここ東平まで通勤していたり、水力発電に使う水を集めたり・・・今は静かなこの場所も、昔は大勢の人・物資が行き交う、賑やかで最新の技術が終結された華やかな場所だったのだ。通洞は先ほどの変電所と違い、とても危険なので、中には入れないようになっている。暗闇を鉄柵の間から覗きこむと、レールの上に残されたトロッコ。以前は水を引いていたと思われるパイプ、そして崩落防止用の木の支えが見える。内部は閉塞されているので、長い長い通洞の奥の様子は窺い知ることはできない。

第三通洞から銅山越に向けては本格的な登山道となる。間違ってもヒールなどでは絶対に登れないので、登山準備のない観光のみの方はここで引き返しとなる。とはいえ、昔は多くの人が住み、激しく往来していた道。登山の準備をしていれば、とても歩きやすい快適な道だ。紅葉の時期は落ち葉や色づいた木々の中、とても自然を感じながら登ることができる。

今や多くの自然が残る山だが、かつてはここは多くの人が住む大工業地帯だった。あちらこちらに石垣で整地された跡が残っている。銅山跡の産業遺跡を見るならおすすめは晩秋。下草がなくなり、葉が落ちた森は、この中に隠していた遺跡を露わにする季節。夏には発見できなかったいろんな遺構を登りながら見つけることができる。

現在は山小屋が建つかつてのプラットフォーム跡

今回の廃線跡散策のスタート地点である「銅山峰ヒュッテ」に到着した。標高は1100m。今は山小屋が1軒だけ営業している静かな場所だが、実はここがかつての山岳鉄道の駅だった。
以前は「角石原(かどいしはら)」とこの場所は呼ばれていた。明治13年、銅山峰の向こう側から新居浜市に鉱石を下ろすために完成した牛車道の中継地点として発展した場所。明治19年には鉱石を焼く窯も完成し、付近はもうもうと煙を上げる工場群が立ち並んでいた。また、同じ時期にはこの山の向こう側まで貫く第一通洞が完成し、一層この地は発展した。そして明治26年、ここから標高850mの「石ケ山丈」までを結ぶ全長5532mの日本初の山岳鉄道である「別子鉄道上部線」が完成する。
平成の今は木々に覆われた静かな場所だが、100年も前の明治時代にはこの付近には木々がなく、荒れた山だった。立ち並ぶ工場が煙を吐き出し、蒸気機関車が走り、トンネルを使って大量の物資が運搬されていた。しかし、当時の最先端の技術を集結したこの場所は、今は静かな登山者の基地となっている。逆行する時間の流れ。自然に帰って行く人の開発の跡。わかりにくいが、写真の左側には「第1通洞」の北口がぽっかりと穴をあけている。当時のプラットホームとその脇には山の向こうから通じる全長1kmを超えるトンネル。明治時代の交通の要所は、100年後の平成の今は「登山の山小屋」なのがとても不思議だ。

銅山峰ヒュッテの案内にある水場。柳谷川のほとり、岩を掘ったような跡を塞いでいるレンガの壁。その壁に設けられたバルブから、水がこんこんとあふれ出している。レンガの壁もバルブも、産業遺産としては十分に認定できる歴史を感じる代物だ。ここが水場だとヒュッテの案内にあるので、飲める水だろう。一口飲んでみるが、冷たくて清冽。美味しい山の恵みだ。
かつてはこの付近はハゲ山で、煙がもうもうと立ち上る工業地帯で、飲み水の確保は難しかったのだろう。岩をくりぬき、違う沢から水を引いたのか、それとも地下水を集めたのか。いろいろと過去に思いを巡らせる、不思議な水だった。

「第一通洞(北口)」
第一通洞はその名の通り、明治19年に別子銅山で初めてできた通洞。日本の鉱山で初めてダイナマイトを使用して掘られ、その全長は1021m。100年も以上前に、全長1kmを超えるこのトンネルを使って、鉱石を山の向こう側から運び出していた。運び出した鉱石はここから蒸気機関車に乗せられ、さらに終着駅の「石ケ山丈」から「索道」という、ワイヤーを使った物資運搬リフトで山の下まで下ろしていたのだから驚きだ。
以前は古く錆びついた柵をつけられて、苔と下草の中に埋もれていた第一通洞。最近の別子銅山人気のためか、きれいに周辺の草が払われ、頑丈な柵に取り換えられている。

第一通洞内部の様子。詳しくは知らないが、閉山した鉱山は法律でしっかりと閉塞しなければならないようだ。入口すぐのところで、第一通洞は埋め戻され、内部の様子はうかがいしれない。以前は入口付近は瓦礫が転がった無残な様子だったが、今はきれいに整備され、ほんの一部だが在りし日の様子をうかがい知れるようになっている。

さて、角石原停車場の昔を思い起こした後は、実際に汽車が走った、山の上の線路跡今からたどるトレッキングに出発だ。銅山峰ヒュッテは広い平坦な土地に建っており、昔にプラットホームがあったであろう事をかろうじて感じ取ることができる。

角石原から見下ろす新居浜市の市街地。今も住友関連の企業が軒を連ねる典型的な企業城下町で、四国有数の重工業地帯だ。こんな山の高い場所にあるにも関わらず、にわずか1年あまりで上部鉄道は完成している。当時の別子銅山の高い技術力とその繁栄ぶりをうかがい知ることができる。

登山道から分岐して上部鉄道跡探索へ出発

上部鉄道廃線跡入口。
左が東平へ続く登山道で、右へ水平に伸びていく道が廃線跡だ。入口には「危険なので歩くなら自己責任」という旨の立て看板がある。昔は鉄道が走っていた跡。そんなに危険場所はないだろうと思う人も少なくはないだろう。僕もそれに近い感覚でこの道へ入って行ったが、この看板の意味を後で知ることとなる。

歩き始めてしばらくすると、水が流れている沢に出る。その沢は見事に石垣とレンガで固められ、鉄道跡の下をくぐり抜けていく。鉄道が走れるように、沢を見事に治水した跡だ。
山をほぼ水平に走る山岳鉄道は、いくつものカーブと谷が連続する。特に谷を渡る場所は22か所もあり、その場所には巨大なレンガ造りの橋台を設置し、鉄道を渡している。実はその橋台が残る谷こそ、この廃線跡の見どころの産業遺産のある場所であり、自己責任が求められる危険場所でもある。

やがて初めての大きな谷にたどり着いた。「葡萄谷」である。100年の月日は、蒸気機関車をも乗せた強固なレンガ造りの橋台もなぎ倒してしまっている。橋台は苔むし、その上からは木が生えている。その姿を見ているだけで、放置されてからどれだけ長い年月がたっているのかをうかがい知れる。そして、当時の人間の技術の結晶が、自然に飲み込まれて朽ち果てていく。そんな時間の流れも知ることができる。

山の中腹を横切って行くというのは、いくつもの沢や谷と出会うということ。小さな沢にもいくつも出会う。ここもレンガ造りの構造物で蒸気機関車は越えていたようだが、長い時間はその構造物を破壊してしまっている。
一応渡れる木造の橋をかけられているが、それもかなり老朽化している。だが、近年の別子銅山人気のためか、新しい立派な鉄製の橋が最近整備されたようだ。

廃線跡を行く。道はさすがに鉄道が走っていただけあって、ほんの少し下り勾配ではあるがフラットで歩きやすい。道を覆い尽くすような木々はすべて、当時にはなかったもの。廃線になってからこれだけの森ができる時間がすでに過ぎている。木々の根本から垣間見る、当時の石垣にはなんだか哀愁すら感じる。

地図上の等高線をなぞるように道は曲がりくねりながら進んでいく。出発して随分時間がたったのに、まだすぐ近くに出発地である「銅山峰ヒュッテ」が見える。

機関車が走っていた廃線跡にはレールはもう残っていない。だが、しっかりと石垣で脇が固められ、平らで広い道は、確かに昔の線路跡を感じさせる。まるで、歴史ある立派な古城の跡を散策しているような気分がした。

谷を越える橋脚に架かる朽ち果てた橋は所々鉄板で最近補強されたようだ。今歩いている区間は、アケボノツツジで有名な「西赤石山」への登山道にも使われている。そのため、比較的きちんと道は整備されている。
今日は登山ではなく、産業遺産を見に来たのだから、産業遺産にこんな手をくわえないでほしい。そう初めは思っていたのだが、最後の方にはこの整備がとてもありがたく感じた。何せ、人が滅多に歩かない谷を越えるというのは、とにかく大変。しっかりした道がなく、苔むした谷川を渡るのは転倒や滑落の危険がつきまとい、時間のロスにもなる。先ほどの「自己責任」の立て看板の意味はこんな所にある。そして、この補強された橋も細く手すりはない。足を踏み外して谷底に転落すれば、ただでは済まない。

廃線跡に突然現れる「千人塚」
ここはかつて、別子銅山でなくなった無縁仏を祭った墓所。深い山の中に、大小の石や無名の墓石がいくつも点在する不思議な場所。実は別子銅山には、山の奥深くにいくつもこのような墓所が点在する。そして、それらは今も、関係者によって供養が続けられている。深い森の中でも、ここに人々が生きた証でもある。

さらに道は続く。所々、線路跡が土砂崩れでなくなっていたり、落石で防がれていたりするが、迂回路もあり難なく越えられる。木々が覆いかぶさり、蒸気機関車が走ったこの道もやがては森の中に飲み込まれそうだ。

上部鉄道跡最大の遺構「唐谷三連橋」

角石原を出発して1時間半。平坦な道で歩きやすいだろうと思っていたが、谷越えや魅惑の産業遺産群の見学で相当に時間がおしている。今日中に終着駅まで行けるのだろうか。そう思っていると、再び谷と巨大な橋台が森の奥に現れた。

この谷は、別子銅山に源を発する主な流れのひとつ、唐谷川が流れる「唐谷」。唐谷には、上部鉄道の最も見ごたえのある産業遺産のひとつである「唐谷三連橋」が待っていた。深い山の中の谷間に突然現れる、レンガ造りの巨大な2つの橋脚。その高さは10m近くはありそうな、とにかく大きな構造物。何も知らずに登山でここを訪れれば、この遺構の存在には度肝を抜かされるのは間違いない。

山の水を集めて流れる唐谷川をまたぐように、巨大な橋脚が鎮座する。100年以上前、この橋脚の上には橋がかけられ、なんと蒸気機関車が走っていた。主に銅山から産出された鉱石の運搬に使われてたが、旅客鉄道としても使われたという。探検のような登山をしている深い山の中は、1世紀前には鉄道が走り、何千人という人が付近に住んでいた場所。逆行する時間と回復する自然の強さに、ただ驚かされる。

唐谷川を見上げる。沢の水を集め、豊かな水を流していく。この上部鉄道の旅は、いくつもの沢を渡る旅。5.5kmの間になんと22か所もこのような沢を橋脚を立てて橋で渡している。昔は機関車で簡単に越えられた橋も今は残っていない。橋が残っていたとしても、老朽化で渡れるところはない。この廃線跡の探検は、この谷を越えることが難所になる。
このルートは廃線跡のウォーキングか、近くの「西赤石山」への登山のマイナールートとしか使われない。歩く人はとにかく少ない(実際にこの日、このルートで他の登山客には誰にも出会わなかった)
それゆえに、この谷筋には苔がびっしり密生していて、とにかく滑りやすい。特にこの日は前日の雨でかなり増水している。安全に渡れるルートが確保できなかった。仕方がないので、流れの極力浅い所を選んで渡渉(水の中を歩く)することにした。こういう時はゴアテックスを使っている登山靴は浸水する心配が少なくありがたい。

橋脚の一つに近づいてみる。その足元から見上げる橋脚の大きさには、ただ驚かされるばかり。深い山の中に、こんな構造物が残っている事は不思議で仕方がないばかりだ。よく見ると、レンガの隙間から植物が芽吹いていたり、木が根を張ろうとしている。
朽ち果てていく遺構には、ゆっくりと、しかし確実に流れる時間を感じる。しかしそれは未来に進んでいるのか、過去に逆行しているのか分からなくなるくらいの、不思議な時間の流れだった。

橋を見上げる。この上を蒸気機関車が走り過ぎて行ったなんて、今は想像すらできない。今は丸太がかけられているだけだが、昔はもっと立派な橋がつけられていたのだろう。この丸太は廃線の跡、鉱山の中の移動のため、架けられたものだと思われる。

唐谷川をなんとか渡りきった。見上げる唐谷川。苔むした深い森は、屋久島を思わせる雰囲気がある。原始を思わせる森だが、ここには100年前、鉄道が走り、鉱山の煤煙で木々が枯れ果てていた。鉄道が廃線になったのは100年前だが、鉱山の完全閉山はわずか30年前。自然破壊と言われる近年だが、その自然の回復力の凄まじさも目の当たりにさせられた光景。
鉱山という人間の開発を飲み込んでいく自然。それは屋久島の風景をモチーフに描かれた映画「もののけ姫」そのものの風景。別子銅山には、もののけ姫の、自然に飲み込まれていくたたら場そのものの風景がある。

何とか谷を渡り、橋の対岸に渡ることができた。橋を渡れば一瞬の谷越えも、谷に降りて渡るとなると、とにかく時間がかかり、滑りそうで怖い場所もいっぱいあった。とはいえ、あの朽ち果てた橋はとても危なくて渡れない。谷に降りるしか渡る方法はない。

唐谷三連橋をくぐり、流れ落ちていく唐谷川。その風景はとにかく特異。何とも言えない独特の風景にはしばらく目を奪われた。後にして思えば、その風景に遺構があったことがあるかもしれないが、川が流れおちていく山の斜面が不思議だった。これだけ深い山の急斜面を沢が流れれば、地面は削られて谷になる。しかし、三連橋からの下流は、広い斜面を川が流れ落ちており、あまり水が谷を削ったような感じがなかった。もしかすると、この橋の建設に付帯して、付近の地形にも手が加えられていたのだろうか。そんな事すら想像したくなるほど不思議な場所で、そんな事すら分からなくなるほど自然がすべての人の跡を覆い尽くしている場所だ。

唐谷三連橋を振り返る。渡ってきた谷底ははるか足元だ。おそらく当時の鉄道用の橋は撤去され、ここを道として使う昔の人が残した丸太橋だけが今は残っている。その新しくかけられたであろう丸太橋すらも苔むし、朽ち果てている。乗ったら絶対に壊れそうだし、壊れなくてもこんな高い場所の手すりもない橋を渡るのは危ない。落ちたらただでは済まない。

レンガ造りの橋脚の上には木々が芽吹いている。時間は流れ、ついには三連橋自体も自然はその中に取り込もうとしている。朽ち果てていく時間の流れは、過去の栄華をぬぐい去る。はかなくも美しく感じた。

ちなみにこれが当時、ここを走っていた蒸気機関車の実物。「別子1号」と名付けられた、ドイツ・クラウス製造所から明治25年に購入されたもの。「別子銅山記念館」に保存されている。

唐谷三連橋を過ぎて、やっと中間地点の「一本松停車場」に到着した。さすがに100年前とはいえ鉄道が走っていた跡は比較的歩きやすかった。しかし、橋脚の上の橋が朽ち果てて渡れなくなった谷を越えるのは骨が折れ、予想以上に時間がかかっている。
「一本松停車場」は木々が植えられていてわかりにくいが、これだけの平地が山の中にあるのは不思議。以前、ここに汽車が停車し、この下にある出発したかつての採鉱本部があった「東平むにリフトで物を下ろしていたなんて、にわかに信じられない。これからのルートは「一本松停車場」から終着駅の「石ヶ山丈」まで往復。そして、この一本松停車場から「東平」まで直接下りる予定だ。

■ここまでの登山地図

一本松停車場跡から上部鉄道跡歩きは後半戦へ

森の中を押し分けるように続いていく道。かつてはこの道にレールが敷かれ、機関車が走っていたのだ。しかしその時から100年が経つ。道が森を押し分けているのではなく、森が道を飲み込もうとしているのが実際。かつての人間の栄華の跡が森の中に消えていく。別子銅山の美しさが象徴された、趣きのある道とかつての線路跡はなっている。

歩きだしてすぐに、今までと「廃線跡」の路面状態が違うことに気付いた。地面が柔らかくて歩きにくいのだ。この出発した「銅山峰ヒュッテ」から「一本松停車場」までの間は「西赤石山」の登山のサブルートということもあり歩く人も多少はいる。しかしここから先は完全に「産業遺産」を探検するような目的でしか歩く人はいない。ここから先は今まで以上に道の状態が一気に悪化しているのではないか。そんな不安が頭の中をよぎる。

山の等高線沿いに走る廃線跡。そのため、幾つもの谷に出会うことになる。
谷にはレンガ造りの橋脚が今も残っている。実はこの廃線跡、当然レール跡など一切残っていないが、谷に残る橋脚や石垣など、産業遺産の宝庫である。機関車の巨体を通した橋脚は堅牢で、100年後の今もびくともせずに残っている。そびえる立派なレンガ造りの橋脚は美しく、よくぞこんな山の中に100年も前にこれだけのものを造ったものだと感心する。

橋脚の上に掛けられている木橋は老朽化が進んでおり、ほとんどの所は渡れない。渡ろうとするのは危険である。そのため、多くの谷では山肌を迂回したり、一端谷底の川に降りて渡渉をしないといけない。
ただし、最近ではこの上部鉄道跡にも整備が入り、丈夫な鉄製の橋が、橋脚の上に掛けられ始めた。当然、橋脚自体、貴重な産業遺産なので、全ての橋脚に橋がかけられている訳ではない。迂回が出来なかったり、渡渉が危険な谷にのみ、橋が新しくかけられた。それでも渡渉が必要だったり、崩落している場所を通過する地点が幾つもある。この廃線跡歩きは、極力、登山の経験が豊富な人と一緒に歩きたい。ちなみに角石原から一本松停車場の区間よりも、一本松停車場から石ヶ山丈停車場の区間の方が谷は少ない。初めに幾つか谷を越えると、残りの大きな谷は「地獄谷」が待つくらいだ。

廃線跡から見下ろすスタート地点の東平。昭和40年代まで、あの場所には3000人以上の人が住み、小学校や病院、社交場まであった。東洋のマチュピチュと呼ばれる貯鉱庫、索道基地跡や以前プラットホームがあった平坦地は、今は駐車場となり、観光の車が多く訪れて賑わっている。写真右側、山の下に降りていく長い階段は、以前はインクラインがあり、物資を運びあげていた装置だ。あの付近が町の中心だったが、さらにそれよりも山の上に、このように山岳鉄道が走っていた。とても不思議な感じだ。

「紫石」
山の中に転がる巨大な石だが、その側面が鮮やかな紫色になっていて、珍しい。

線路は続くよ、どこまでも・・・
とはいかない。しっかり組まれた石垣は強固だが、100年の歳月は所々、当時の人間の立派な仕事を綻ばせている。自然を押し分けた石垣は、自らをメンテナンスしてくれる主を失った後、その自然の力に耐えきれず、所々崩落している。場所によってはとっても危ない個所もあるので注意が必要。

とはいえ、線路を通す平坦地を確保するために、しっかりと組まれた石垣は立派。大正、昭和、平成の時代を飛び越え、令和になった今も、その姿をしっかり残している。これだけのものを標高1000mの山の上に、たった1年間で5.5kmもの線路を造り上げてしまったのだ。明治の日本人のそのパワーには、何度も驚かされる場所である。

組まれた石垣の下は、相当な急斜面。うっかり足を踏み外したりすれば、奈落の底まで転がり落ちそうだ。よく、こんな所に線路を、しかも明治時代に造ったものだと、何度も感心する。そして、当時はここは裸地だったのだろう。廃線になった後に、別子銅山が植林して、森に還したその苦労の後もうかがい知れる。

ずっと向こうまで直線を描く石垣と線路跡。まるで城跡を散策しているような気分になる。

石垣に根を食いこませるようにしてアカマツが生えている。この石垣が人の保守を受けなくなって、随分と時間がたっている事を物語っている。

「切り通し」
この場所に近づくとわかるのだが、付近は岸壁が断崖絶壁に押し出した形になっている。そんな場所を機関車を通すために、岩壁の一部を切り抜いた場所。まるで門のように両側から迫る岸壁は圧巻。今は木々が生えているが、この岩壁の隙間を機関車が貨車を引いて通り過ぎていた遠い過去など、どのように想像できるのだろうか。

最後の難関、地獄谷。水は流れていないものの、谷に下り、そして登り返す。橋脚の上に戻るため、谷底からハシゴが掛けられている。あくまでも簡易なハシゴのため、十分に注意して登る必要がある。この地獄谷を過ぎれば、目指す終着駅、石ヶ山丈停車場はもうすぐだ。

遺跡のような遺構が残る「石ヶ山丈停車場」

その廃線跡を一本松停車場跡から歩くことさらに約1時間。到着したのは、「石ヶ山丈停車場跡」。標高850mに位置する、上部鉄道の終着駅だ。
明治26年に完成した5.5kmの山岳鉄道は、坑道から掘り出した銅を蒸気機関車でこの「石ヶ山丈停車場」まで運んでいた。そしてここから最後の採鉱本部があった現在の「道の駅マイントピア別子」がある「端出場」まで、索道(ロープウェイ)を使って銅を下ろし、かわりに鉱山で使う物資を運びあげていた。山岳鉄道もそうだが、標高差約700m、延長1,585mの高架索道を明治時代にすでに造っていた事にも驚く。
当時の写真を見ると、ここには線路が敷かれ、巨大な木造の建物があった。付近は切り開かれていて、木々はほとんどない、荒れた「開発された山」である。それが今は、木々に覆われた深い自然の中。明治時代の最新鋭の技術が結晶していた、関係者の誇れる場所が、平成の時代では登山装備をして登りつめる深い森の中、山の中。人間の儚さをも感じる場所だ。わずかに残る、石を積み上げた段差が、かつてここがプラットホームだったのだろうということを思い出させてくれる。

山の中に突如として現れた平坦な土地。ここも、今までの廃線跡同様、しっかりと石垣で整地されている。が、今までに無かった遺構がこの停車場跡にある。

石ヶ山丈停車場には、謎のレンガ造りの溝が残っている。今まで、谷越えをする際、巨大で立派なレンガ造りの橋脚跡は幾つも見てきたが、このようなものは初めてだ。

レンガ造りの遺構は、2つの溝が十文字に重なるように地面に刻まれている。ひとつは深く、そしてもう一つは浅く。

随分草木に覆われているが、この深い溝に降りるレンガ造りの階段がつけられている。以前は人がこの溝に降りて、作業をしていたことが想像できる。長い年月で階段は土に埋まりつつあるも、その頑丈な溝は未だにしっかりとその原形をとどめている。

鉄道が廃線になってから100年がたつので、随分溝の底は土に埋もれているだろう。本来の溝の深さや、底の様子はもはやうかがい知ることが出来ない。
資料によると、実はこの遺構、機関車の整備施設の一部だったそうだ。この溝に人が潜り込み、上部に渡したレールで機関車を運んできて、下から点検や整備をしていたそうだ。まるで何か原始的な儀式の祭壇や、迷宮のように思える遺跡は、実はメカのメンテナンスのためだったとは、予備知識が無いと、全く想像もつかない。当時はここで、オイルまみれで整備工が工具を扱い、鉄の塊の下に潜り込んでいたのだ。

頑丈なレンガ造りの遺構も植物のツタや根、そして土に埋もれていく。100年という時間の経過が、この遺跡も付近も森に変えていく。こんな山の上の森の中で、機関車が整備されていたなんて、全く信じられない。

レンガの壁を覆っていくコケが、時間の経過を物語っている。しかし、当時の近代ハイテク文明を支えたその自信からか、堅牢なレンガ壁は、緑化という時間の流れに飲み込まれていく事を頑なに拒んているようにも見える。地面にうずめられているからだろうか、レンガ造りの遺構で放置されているもののなかでは、かなり保存状態が良い。

駅の端はまるで城壁のように高く立派な石垣が組まれている。駅という広い平坦地をこんな急峻な山の中に造りだすためには、相当地形に手を加えないといけなかったのだろう。この石垣の上から、一気に山の下まで索道が通されていたことすら、今となっては夢物語。まるで古城の跡のように、忘れられたかのように、当時の汽笛と蒸気機関の大きな音は、森の中に静かに眠っていた。
この先には当時の機械部品を多く残している水力発電所の施設であった「石ヶ山丈貯水池」がある。散策には約30分。時間があればぜひ訪れてみたい。

■上部鉄道後半とマイントピア別子からの登山地図

一本松停車場からスタート地点の東平へ

 別子銅山上部鉄道の散策を終え、一本松停車場まで来た道を戻る。ここから車を置いた「東平」へと登山道を使って下ることにする。よくこの道は「急坂」とネットなどで見かけるが、登山経験者からすれば普通の山道だ。廃線跡や東平から銅山峰への一般登山道と比べると確かに道はせまく傾斜は急だが、どこにでもある登山道だ。
下山途中、所々から付近の山の景色が見渡せる。まるで森林限界付近のような風景だが、標高はたった1000m~1600m付近の風景だ。100年前にはこの山の中腹に鉄道が走り、工場がもくもくと煙を吐き、木々が少ないはげ山だったなんて、全く信じられない。そんな形跡は、どこにも微塵にも感じられない。

見上げる西赤石山(1625m)
アケボノツツジで有名な山で、登山者も多く登る。僕も以前、別子銅山から西赤石山に登ったが、一気に植生が変わる。銅山より標高の高い場所にあったため、開発されなかったようで、元々ある原始の姿が残っていると感じた。しかし、すぐ足もとで銅山の煙がモクモクと立ち込めていたのだ。この山も全く被害がなかった訳ではないだろう。

道を下っていくにつれて、西赤石山を乗せた、稜線が空の上へと遠のいていく。美しい木々の中にいれば、深呼吸すると本当にいい自然の香りがする。こんなに大きな深呼吸、銅山の最盛期にはできなかったのかも知れない。当時の最新技術が惜しみなく投入された工業地域が、100年後には気持ちのいい自然。とにかく不思議な場所だ。

途中、送電鉄塔の下に出る。向かいの山に立つ送電鉄塔は、車を置いた東平から廃線跡の出発点「銅山峰ヒュッテ」まで登る道(馬の背コース)の途中にある。向こうの山からぐるっと山伝いにここまで水平に廃線跡を歩いてきたことになる。

登山道は急な下りと緩やかな下りが繰り返しながら、それでも一気に標高を下げていく。危険場所もほとんどない。

道の途中、今までと違い産業遺跡はほとんど見れず、「登山道」としての雰囲気がとても強い道だった。それでも途中、こんな遺跡もある。山の上から引いた水を何方向化に分水するような役目を負っていたのだろうか。

産業遺跡に近づいてみる。しっかりとした造りのレンガに生えたコケがその歴史を物語る。深い森の中に眠る重厚なレンガ造りの遺構は、とてもミステリーで神秘的。

先ほどのパイプがつながっていたであろう、社宅跡が山の中に残されている。山道を登った所に、人が何世帯も生活していた跡が残っている。よく見れば、登山道から離れて、社宅の中に入っていく道も荒れ果てながら残っており、それに沿うように、家が建てられていたであろう平地が残っている。

遺跡群を下るとすぐに「第三変電所」に出た。一本松停車場から20分ほどで下れたことになる。

別子銅山上部鉄道跡散策の注意

平坦な道ですが谷越えや崩落個所通過などで時間を要します。遺構をしっかり見るなら少なくとも6時間のタイムは見積もってください。危険個所が多く、入山者も極端に少ないので、登山初心者単独の探索は慎んでください。登山熟練者を含めたパーティーでの入山が望ましいです。また、雨天の後などは谷の水量が増えて危険な場合があります。

別子銅山上部鉄道散策に便利な宿

 

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