遠登志橋【別子銅山・明治時代の鉄橋】

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愛媛県の紅葉の名所のひとつである「別子ライン」。道の駅マイントピア別子から、深い山に向かう県道47号線の愛称で、11月中旬になると、美しい紅葉ドライブを楽しめる。
美しい川の流れ、渓谷美を楽しめる場所だが、以前はこの山は銅山開発でにぎわっていた場所。山麓の新居浜市に軒を連ねる「住友」が大きく発展する礎となった「別子銅山」だ。
別子銅山は昭和48年に閉山となり、町や工場は取り壊され、自然へと帰っていった。今は深い山や森を歩くと、時々遺跡のような当時の面影に出会える、それもこのエリアの魅力である。

紅葉の季節が一段と美しい遠登志橋

今回紹介するのは、別子ライン沿いにあり、比較的簡単に見れる、正真正銘の産業遺産。それが「遠登志橋」(おとしはし)だ。
この付近ではひときわ美しく紅葉がもえる遠登志渓谷にかかる鉄橋。こんな深い所にかかる歩行者用の橋なんて、登山のためにしか考えられないが、実はこの鉄橋は以前は生活道路だった。この深い深い渓谷の上部には、昭和の時代に3000人を超す人でにぎわう鉱山町があった。

遠登志橋の入口は、鹿森ダムのループ橋をこえてすぐ、遠登志売店がある橋の北側。県道の橋のすぐ横に、もう1本旧道の橋が架かっている場所だ。この旧道の橋の北側(新居浜側)の付け根に、遠登志橋に向かう遊歩道入口がある。
遊歩道入口にはモニュメントや観光案内板があるので、すぐにわかる。入口前に2、3台ほど車を停めることができる。

県道から遊歩道を行く。遠登志橋までは5分もかからないが、途中に見下ろす紅葉に色づいた渓谷と、美しい水の流れには何度も足を止めてしまう。とても澄んだ水が流れているが、半世紀ほど前に、この上流に3000人の町があったとはにわかに信じられない。上流にある町は、今、「東洋のマチュピチュ」とにぎわう、「東平」(とうなる)である。
遊歩道は平坦で舗装されていてとても歩きやすい。途中、明治37年に完成した遠登志水力発電所跡に続く階段がある。ここは現在、展望台になっているとのこと。また次回、訪れてみたいと思う。

 山奥の鉱山町に続いた明治時代の鉄橋

遠登志橋に到着。遠くから見ると随分大きな橋にも見えたが、実際は人しか渡れないサイズ。渓谷にかかる真っ赤なその色が、紅葉と映えてとても美しい。

深い渓谷を吊り橋で渡る。吊り橋とはいえ、大きく揺れることはなく、安心。色づいていく深い谷の上空を楽しく空中散歩。
実は、今渡っているこの吊り橋の部分は平成5年に作られた橋で、遠登志橋ではない。遠登志橋はこの吊り橋の下にある。明治時代の橋の上に、平成時代のかかるという、とても不思議な構造をしている。

吊り橋から見下ろす遠登志渓谷。水はとにかく澄んでいて、美しい。今ですら、この谷の上部に開けた観光施設があるのは信じられない。昭和40年代に、3000人が住む町が、この上流にあったなんて、さらに信じられない。
渓谷の水は、まるで「魔性」という言葉がぴったりなくらいエメラルドグリーンに澄んでいる。しかし閉山したとはいえ、鉱山の川。魚影がまったく見えない美しい川は、「魔性」という言葉がなぜだかピンと頭に浮かぶほど、気高くも冷たい美しさに感じた。

吊り橋を渡り切り、振り返る「遠登志橋」遠登志橋は下の鉄橋アーチ部分で、今渡った上の吊り橋は平成になって造られたもの。実は、下の橋と上の橋はつながっておらず、別々の橋になっている。2つの橋が、上下に重ねられて造られている、不思議な光景だ。
遠登志橋は明治38年に完成した鉄橋で、現存する日本の鉄橋としては最も古いもののひとつ。この渓谷の上部にある、東平へ向かう道の一部として造られた、生活道路としての橋だ。また、東平にある坑道から流れ出す鉱毒を含む排水を、山の下にある処理施設まで流す坑水路も併設されていた。
長さ48.25m、高さ23m。明治時代にこんな立派な鉄橋が生活のために造られていたのには本当に驚き。そしてその鉄橋が、今も深い自然の中に残っている。日本が近代化へと突き進めた人々のロマンを今も感じる、そんな場所だった。
遠登志橋は平成19年度に「近代化産業遺産」に登録され、国の登録有形文化財にも指定されている。
この橋を渡ったところからは、東平に通じる「登山道」がある。今は登山道だが、昔は多くの人が行きかう生活道なので比較的安心して歩ける道。
美しい紅葉と小女郎川の流れを見ながらのトレッキング。そして、この橋を渡った坑水路のレンガ造りの遺構などの産業遺産。紅葉の時期はひときわ楽しい登山道。ハイキングをするなら、こちらもおすすめだ。

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