筏津坑 【別子銅山の見学できる坑道】
愛媛県新居浜市と住友の発展の礎を築いた、日本三大銅山のひとつである「別子銅山」。この別子銅山の歴史をさかのぼるように走るドライブルートが「別子・翠波はな街道」だ。最後の採鉱本部跡である「マイントピア別子」からこのルートを走らせると、道はどんどん標高を上げていく。そしてついには山の上のトンネルを抜け、別子銅山の南側に出た。
ここから山を下ると、旧別子村エリア。江戸時代の別子銅山の鉱山町があり、筏津坑などの別子銅山の支山などがあり、大変にぎわった地域だ。別子銅山の入口である日浦登山道の近くには、マイントピア別子・東平ゾーンにある第三通洞まで通じる日浦通洞の入口が今も残る。通洞内を走るトロッコ列車でこの旧別子村エリアから海沿いの新居浜の町まで、通勤や通学をしていたというのが、とても驚きだ。
別子銅山が閉山となり、産業を失った別子村は日本一人口の少ない過疎の村へなってしまった。今は新居浜市と合併しているが、付近は豊かな自然の中、所々集落が残るだけになっている。
昔の栄華など今はもう見つけることができないこの地に、ひっそりと当時を偲ぶ施設がある。それが「筏津坑」だ。
筏津坑があった場所は、当時は商店やクラブが軒を連ね、とても賑わっていた。今ではその賑わいは嘘のように何も無く、登山の基地として駐車場があるだけだ。それでも付近を散策すると、多くの遺構を見る事ができる。その最大の遺構が、過去の栄華の中心部であった「筏津坑」だ。
※現在、筏津山荘は取り壊され、筏津坑のみあります
ほぼ当時のままの姿で残る筏津坑。筏津坑は明治11年の開坑で、最初は弟地坑(おとじこう)と呼ばれていた。この坑口は昭和15年に開かれた筏津新坑口で、別子銅山閉山にあたり、一番最後まで使われた坑道だ。ここは今も坑道の中に入ることができる。当然、内部は閉塞されているが、別子銅山の現役の坑道に入れるのは、現在ではこの筏津坑だけだ。現在は観光施設として、入口の付近だけが無料で開放されている。ゆっくりとその入口から深い別子銅山の中に入っていく。
坑道内は木で組まれた支保坑。当時の物だろうか、それとも閉山後に補強されたものだろうか。どちらにせよ、とても当時の雰囲気を感じられる。
坑道内には在りし日に使われいた鉱山開発の道具などが展示されている。左はかご列車。日浦通洞から第3通洞へ、通勤・通学のために鉱山町に住む人が山をくぐるために使われていたものだ。危険な坑道を通って一般市民を運搬したため、万一の落盤などにそなえ、とても頑丈にガードする造りだ。右はヘルメットやヘッドランプ。
坑道の行き止まりは当時の採掘の様子をマネキンで表現している。トロッコ軌道の奥は閉塞された部分。ただ分厚い板で閉鎖しただけか、コンクリートなどでしっかりと閉塞されているのか。この先の様子はわからないが、水がぽたぽたと滴り落ち、その音が坑道内に響いている。
先ほど訪れた、マイントピア別子の観光坑道とは違い、ここはとても冷たく、流れる空気も違う。この行き止まりの先は海面下1000mまで続く地下世界。山の向こうの「マイントピア別子」にある第4通洞にも、様々な坑道を連絡して行けるというので驚き。総延長700kmにもおよぶ地下世界がこの先にあると思うと、すごいと思う反面、少し怖くも思う。
閉山から40年。何の手入れもされていない地下世界は危険で、もう立ち入る事すらできない。今はここから、過去の壮大なロマンを垣間見るだけだ。
坑道行き止まりから出口を振り返る。深い坑道から帰ってきた坑夫たちは、あのまぶしい太陽の光を見て、ほっとしていたに違いない。ほんのわずかであるが、在りし日の坑道の様子を実感できる施設。深い深い地下世界のわずかな一部ではあるが、その世界を垣間見ることができる、貴重な場所だった。
※現在リニューアルされて2019年8月再開
筏津坑
住所: 愛媛県新居浜市別子山乙510
電話: 0897-64-2018
営業時間: 不明
休業日: 不明
交通: 松山自動車道・新居浜ICより車で約70分
料金: 無料
駐車場: 約10台 (他に登山者用の駐車場が約20台あり)
【投稿時最終訪問 2011年10月】