別子銅山【小足谷集落・圓通寺跡】

最終更新日

Comments: 0

日本三大銅山のひとつで、昭和48年に閉山した別子銅山。日本を代表する企業グループ「住友」が、283年にわたり経営を行い、その発展の礎となった銅山だ。
ひとつの企業が300年近くも経営を続けた鉱山は世界的に例がない。それゆえに環境対策も進んでおり、閉山後すぐに植林などで山は森へと還された。今では深い山の中、当時の面影の欠片がひっそりと眠っている。
別子銅山は近代に栄えた山の北側と、江戸から明治時代に栄えた南側に分かれる。今回は南側の日浦登山口から入山する。

森の中に眠る墓所「圓通寺跡」

新緑の森の中を流れる小川。流れが山の空気をかき混ぜて、森の薫りと水の匂いを届けてくれる。とても心地よい自然の空気。気付くと思いっきり深呼吸している。
しかし、かつてはここに民家が立ち並び、多くの人が行き来していた場所。川には鉱山から流れ出た坑水から鉱毒を沈殿させる施設があり、精錬所からの煙もひどかっただろう。そんなかつての風景が信じられないほど、今は緑豊かだ。

登山口から10分ほど歩くと、圓通寺小足谷出張所跡にたどり着く。別子銅山開坑から、大正5年の小足谷地区の撤退までの間、ここで従事した人々が眠る無数の墓が今も立ち並んでいる。登山道から離れ、この圓通寺の上部へと続く道を登ってみる。

圓通寺跡の道を進むと、多くの墓石と出会う。墓地は山の中いっぱいに広がっていて、森の中にも続いていく。一体どれだけの数の故人がここに眠っているのか、想像すらできない。隅々まで散策するだけでも、相当時間がかかりそうだ。ただ、今も墓参りする人がいるのであろう、道は思った以上にしっかり整備されている。
しばらく登ると広場があり、大きな墓標がある。ここが本堂の跡だろうか。その付近の森の中にも、まだ多くの墓が眠っているのがみえる。墓石を見ると、江戸時代の元号や、聞きなれない昔の名前が刻まれている。明治時代、日本を大きく発展させた礎となったのは、こういった名もなき人の命がけの働きだったはずだ。今、僕たちがここにあり、文明社会を謳歌できるのは、ここにいる人の働きのおかげのはずだ。そう思うと、知らず知らずのうちに、この森の中に眠る墓標に手を合わせ、感謝の言葉を口にしていた。僕はこの人たちのように、後世の人に感謝されるような事は出来るのだろうか。そう思いながら、先人が眠る森を後にした。

森に眠る街の跡「小足谷集落跡」

 小足谷の集落跡にたどり着く。ここには要人を接待した接待館や責任者であった採鉱課長の邸宅があった。かつては日本庭園があり、京都から芸者が呼ばれていたそうだ。今は石垣とレンガ壁を残すだけだが、よく見れば排水路や水道管の跡も見られる。そのほとんどが森に覆われているが、巨大な鉱山街がここにあった。
いずれ、この小足谷の町の上部まで散策してみたい。クモの巣や害虫の心配がなくなり、下草が消えて遺跡が見やすくなる次の晩秋が好機だろう。

小足谷の集落の中には、醸造所の煙突跡が残っている。かつてはここで酒を造っていたのだ。銘柄ヰゲタ正宗、別名「鬼ごろし」という日本酒が最盛期には年間100キロリットルも酒造されていたそうだ。崩壊寸前だった煙突はしっかりと補強工事され、見事に立ち直っていた。

小足谷集落の下を流れる小足谷川には、小足谷収銅所跡がある。重金属を含んだ抗水を処理する施設。かつては今の清流とは違い、ここは鉱毒が流れる汚れた川だった。その事態を解決するために、明治9年につくられた施設。今も川沿いにその施設跡が残っているが、そこにたどり着く道は残っていないために接近には藪こきとなる。小足谷収銅所跡は、また晩秋の楽しみにとっておく。
それとは別に、小足谷劇場跡付近から小足谷川に下りる道ができていた。川沿いに下りてみる。かつて銅山があっただけに、今でも鉱山の成分が流れ出しているようで、水の中には生物の影は見られない。それでもかつてはこの川が、鉱毒と工場・生活排水にまみれていたとは信じられない。

川沿いを歩くと、錆びついた機械部品が落ちていた。いつごろのもので、何に使っていたのだろう。そんな想像をして、昔に思いを巡らすだけでもとても面白い。目を凝らしてみると、登山道の脇にでも茶碗や瓶、石臼など、かつての生活の道具が見つけられる。

集落跡を進むと、延々と続く石垣と城壁のような巨大な石垣がある。これは小学校と劇場跡だ。
明治19年今は山中のこの地に小学校が開校し、最盛期の明治32年の生徒数は298名、教員7名であった。今は森の中に学校があった平地が僅かに残るのみで、時代の流れの早さを感じる。
小学校跡の次に現れたのは、城壁のよう巨大な「小足谷劇場跡」と「大階段」だ。明治22年に建てられた劇場は1000人の収容人数を誇り、歌舞伎の名優を京都から招いての上演も行われていた。かつて大変賑やかだったこの地は今は登山の途中に通る森の中。まるで滅亡した文明さながらの神秘さを醸し出している。

さて、小足谷劇場跡を過ぎると、登山道は川の右岸に渡り、高度を上げていく。左の道を行くと、橋を渡るのだが、よく見ると、右の方にも道があり、そのまま左岸を登っていける。
この左岸には製錬所跡や病院跡が残っている。このまままっすぐ進めば、登山ルートにはない、それらの遺跡を探検できるだろう。今は失われたとはいえ、昔に工場や病院があった場所だ。歩くルートはそれなりに残っているはず。そして、また登山道に戻れるであろう出口がある事も確認済だ。

シェアする